その如月の望月のころ

2021-02-15 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 4 日> (仏滅 甲午 四緑木星) Sigfrid  第 7 週 第 26302 日

 

お釈迦様が入寂されたといふ「その如月の望月のころ」は旧暦で数へるべきかもしれない。旧暦の2月15日は必ず仏滅になる。今日は新暦の2月15日で、三日月である。が、たまたま仏滅ではある。日本の各地に仏舎利塔がある。福井市足羽山にも福井仏舎利塔がある。仏舎利塔にはお釈迦様の遺骨が納められてゐるとされる。お釈迦様ほどの聖人でなくても、日本人は遺骨を大事にすると思ふ。戦没者遺骨収集事業はどの国でもなされるのかもしれないが、日本人は特にその思ひ入れが強いことはないだろうか。日本では人が亡くなって荼毘に付されると、遺骨を骨壷に入れて、一旦、自宅へ持ち帰ったりする。これは絶対にスウェーデンでは見られないと思ふ。イエス・キリストは磔にされた後に復活された。3日目の日曜日の早朝に女たちが墓を尋ねると、墓は空になってゐたといふことだから、遺骨はないのである。日本人と西洋人とは死生観が違ふ様に感じることが僕にはあるが、この遺骨に対する扱ひ方や感じ方の違ひが、あるいは根底のところで影響してゐることはないかなと思ふ。

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新雪でなくても光を受けると輝きがある

 

ヒヤリとしたニュース

2021-02-14 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 3 日> (先負 癸巳 三碧木星) Alla hjärtans dag Valentin  第 6 週 第 26301 日

 

昨日の日本からのニュースにはヒヤリとした。福島県沖で発生したといふ地震の事である。このニュースはスウェーデンのTVニュース番組 SVT Rapport でも取り上げられた。気象庁東日本大震災の余震と説明した。10年もしてから「余震です」と言はれても人間の生活時間感覚からすればピンと来ないが、長期の時間感覚では一瞬のことであろう。プレート境界地震ではなく、海洋プレート内部で起きた地震であると新聞には書かれてあった。海洋プレート内地震震源が深く、津波を起こす心配は少ないとのこと。また、広い範囲に振動が伝はる特徴があるといふ。今後1週間程度は同規模の地震が発生する恐れがあるといふが、この1週間といふ数字だってどこまで根拠があるかわからない。1ヶ月かもしれない。1年かもしれない。2011年の東日本大震災の時、僕は日本の茨城県にゐたが、その直前のひと月ほどの間には体に感じる地震が頻繁に起きた。大地震が火山の眠りを揺り起こすこともあると聞く。それもまた心配だ。日本列島をつなぐ大地よ、どうぞ、鎮まって欲しい。地震も、津波も、火山も、コロナも皆鎮まってほしい。

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早春の青空に旗を見る。その後ろに一筋の雲がたなびいた。

 

平家物語「烽火之沙汰 1」

2021-02-13 (土)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 2 日> (友引 壬辰 二黒土星) Agne Ove  第 6 週 第 26300 日

 

「これは君がお決めになることであるから、できないことかもしれないが、院御所法住寺殿をお護り申し上げたいと思ふ。何故かと言へば、重盛は初めて従五位下に叙せられてから今大臣の大将に抜擢されるに至るまで、ことごとく、君の御恩でないものはない。その恩の重いことを思へば、千粒万粒の玉よりも重いものである。その恩の深いことを案ずれば、何度も繰り返し染めた紅よりも深いものだ。であるので、院中に参って立て籠もるつもりである。さういふことになれば、重盛の身に代はり、命に代はりますと契りを結んだ侍が少しはゐるだろう。そのもの達を連れて、院御所法住寺殿をお護りすれば、何といっても容易ならざる大事となるであろう。悲しいかな、君の御ために奉公の忠をいたそうとすれば、須弥山の八万の頂よりまだ高いといふ父の恩を忘れることになる。痛ましいかな、不孝の罪を逃れんと思へば、君の御ために不忠の逆臣となってしまふ。進退ここに極まった。是非の判断もつかぬ。かくなる上は、ただ、この重盛の頸を取ってくれ。院中を守護することはならん。院の御所を攻めることもならん。昔、蕭何はその手柄が同僚たちよりも大きく過ぎたので、その位は大相國に至り、剣を帯し沓を履きながら昇殿が許された。けれども、叡慮に背くことがあったので、漢の高祖は重く戒め、深く罰したといふ。この様な話を思ひ起こすにつけても、富貴といひ栄花といひ、朝恩といひ重職といひ、父上はどちらも最高をお極めになったから、この先はもう御運が尽きるのではないかと心配だ。富貴の家に禄位重畳するのは、実が繰り返しなる木の根が傷むのと同じことだといふ。心細く思はれることよ。いつまでか永らへて乱れた世を見るのもどんなものか。只末代に生を受けて、この様な辛い目に遭ふ重盛の前世の報ひが悲しいことであることよ。たった今、侍の一人に仰せつけて、お庭に引き出されて、重盛の首を刎ねられもしようかと思ふ。そんなことはごく簡単なことだ。このことを皆も聞いてほしい。」かう言って重盛は直衣の袖もしぼるばかりに涙を流すのであった。居合わせた人々は、心ある人も心ない人も皆、鎧の袖を濡らしたことであった。

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雪の郊外をドライブしてみた。よく晴れて窓越しに受ける日光は強かった。

 

年賀状の整理

2021-02-12 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 1 日> (先勝 辛卯 一白水星)新月 Evelina Evy  第 6 週 第 26299 日

 

年末年始にはクリスマスカードや年賀状を何通かいただく。僕と同年代の友達で、これからはもう年賀状を出しませんと宣言してくる人もある。それでも出してみると、律儀に返事をくれるので、そんな時は手数をかけてしまったかなと思ふ。心のうちでは近しいのに失礼してしまふ人もある。デジタルだけで挨拶しあふ人もある。僕自身もなるべく簡素な暮らしにしたいので、どちらかといふとやめにしたい傾向である。でもその一方で、できるだけ続けたい様な気もある。届いたカードをいつまで取っておくかもひとつの課題だ。取り敢へず段ボールに入れておく手もある。今日は今年いただいた分だけまとめてみた。基本的に封筒は捨てて中身だけ保存する。かうすることで随分減量できる。この時、封筒に書かれた差出人の部分だけ切り取って、それをカードの裏などに貼って、誰からのものかわかる様にする。スウェーデンの国内便はなぜか封筒に差出人を無記入で出す人が多く、そんな場合は切り張りの手間が省ける。同居人は書かれた文字を見ただけで、「あ、これは誰々さんだ」と上手に識別する。いただいたカードは全部スキャンしてあるから、検索は機械上でできるのであるが、オリジナルはスキャンがあるからすぐに捨てて良いものでもないと思ふ。カードをいただいてから日長くなったので、整理する時にもう一度読み直すことになるのも楽しみのひとつである。ちなみに、日本の年賀状のくじは1枚だけお年玉切手シートが当たった。でも、おそらく今年も日本へ行く機会がないからこれは残念賞である。

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日暮れのブルーが美しい

 

ファスナー

2021-02-11 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 30 日> (大安 庚寅 九紫火星)建国記念の日 Yngve Inge  第 6 週 第 26298 日

 

子供の頃のズボンは前びらきの部分をボタンで留めてゐた。いつからかそれがファスナーにかはった。その頃はそれをチャックと呼んだ。最初にチャックを使った時、「ああ、これは便利な世の中になるな」と感嘆した覚えがある。けれども、このファスナーはなぜ開いた部分を縫ひ合はせる様にできるのか、その仕組みはどうなってゐるのか、あまり研究したことがない。この様なものを発明した人は偉いと思ふ。ところで、よく着るジャケットのファスナーが最近壊れた。可動部を上に上げても、下の方が合はさらずに開いてしまふのだ。それで、可動部のある1点でしか左右を留められない。外は寒い。取り敢へず他のジャケットを着たが、まだ着れるジャケットなので、捨てるのは勿体無い。直せないものかなと思って観察すると、可動部の噛み合ふ部分に隙間がありすぎる様に見えた。もし、この隙間を無くしたらどうなるかなと思って、ペンチで可動部を挟んで圧縮してみた。すると、うまく噛み合ふ様になった。嬉しい。だがこの時、強くやりすぎたせいか、可動部の持ち手が切れて外れてしまった。圧縮する時、ペンチの刃間に布を当てて優しくすべきであった。持ち手が無いとえらく不便であるのだが、万能オイルを塗ってみたらスイスイ滑るので、なんとか持ち手がなくても着脱できる様になった。人生後半の僕に衣類もたくさんあって、保管にも場所を取るので次第に少なくしていきたいと考へてゐるが、寒い日のための厚めのジャンパーはやはり必需品である。取り敢へずはファスナーの修理ができたので、もうしばらくこれを着ることができるだろうと期待してゐる。

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今朝の気温 -13℃、気圧1025hPa。午後も晴れて散歩は気持ちよかった。

 

言ひたい奴には言はせておけ

2021-02-10 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 29 日> (仏滅 己丑 八白土星) Iris  第 6 週 第 26297 日

 

東京オリンピックパラリンピック組織委員会の森会長が女性蔑視の発言をしたことで、この頃、ネットが騒がしい。僕はこの様なことで世の中が騒ぐのがどうにも鬱陶しい。発言の内容が良いとか悪いとかいふことではなくて、そんなに騒がなくても良いのではないかと思ふのだ。昔から日本には「言ひたい奴には言はせておけ」とする鷹揚な面があったと思ふが、この頃はその様な度量をあまり見かけない。多様性を受け容れるとは不愉快を引き受けるといふことだ。ある人がある発言をしたら「ああ、あの人はその様な価値観の人ね」と思へばそれで十分ではないかと思ふのだ。政治家は「こんなことを言ったら更迭されるかもしれない」といつも心配しながら公の場で発言することになれば、何事を述べても人の心に訴へるものを持てなくなるのではないか。心の中では違ふことを思ひながら表向きだけは差し障りのないことをいふ政治家が増えたら、日本のために良くない。もし、変なことをいふ政治家がゐたら、「心に思ふことを正直に言ってくれてありがたうね、あんたの明日は暗いよ」くらいに思へば良いのではないかと思ふ。

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今日も散歩できてありがたい。

 

奇数人間

2021-02-09 (火)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 28 日> (先負 戊子 七赤金星) Fanny Franciska  第 6 週 第 26296 日

 

昨日のブログを書いた後に色々なことを思った。続きを書く。子供の時に自分は偶数人間であるといふ自覚を持った。といふことは、世の中には奇数人間もゐる筈だ。言はれてみれば確かにゐる様な気がする。偶数人間はどちらかといふと周囲との協調を重んじて平和的なのであるが、奇数人間は自分の主張が強く孤高な感じがある。そんな風に見ると、確かにあの人は奇数人間だなと思ふ人がゐる。さらに、日常生活では滅多に会はないが、素数人間もゐる。2も素数であるから2だけは例外にするけれども、自分以外に約数を持たない人間である。つまり、素数人間とはサイコパスのことである。かうなってくると、完全数人間もゐるのではないか。完全数とは自分の約数を足し合はせると自分自身になる数字で、好例は28。世の中には「どこの学校を出ても同じですよ。学歴は関係ありませんね」と言ひながら、その実自分だけは一流大学を出ないと気が済まない人ってゐるのではないかな。そんな人がもしゐるとすれば、その人は完全数人間かもしれない。周囲の人を数でタイプわけするのも面白いかなと思った。

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氷点下が続く毎日