偶数人間

2021-02-08 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 27 日> (友引 丁亥 六白金星) Berta Bert  第 6 週 第 26295 日

 

小学生であった頃、僕は子供なりに自分が偶数人間であるといふ自覚を持ってゐた。1年生から6年生まで2組であったといふこともある。ついでに言へば、中学時代の3年間は11組、高校時代は1年が7組、2-3年が4組であった。これから言へば別に偶数人間ではないのだが、出席簿番号とか色々なことから偶数との縁を感じてゐた。偶数の中でも特に2が好きであった。奇数のうちでは5が好きであった。実は今日は誕生日で、2月8日といふ月も日も偶数であることが、昔からなんだか気に入ってゐた。生まれた年は1949年で、これは奇数であるが、子供の頃は昭和24年といふ言ひ方をしたから、これも偶数であり、多くの約数を持つこの24といふ数字も好きであった。一般に割り切れる数が好きであったのかもしれない。「とてつもない数学」といふ本(永野裕之著 ダイヤモンド社)を読んだら、「ピタゴラス数秘術」といふことが書いてあった。その部分を写すと、1から10までの数には意味があるのだと書いてある。1: 理性、2: 女性、3: 男性、4: 正義・真理、5: 結婚、6: 恋愛と霊魂、7: 幸福、8: 本質と愛、9: 理想と野心、10: 神聖な数とあった。それで、2+3=5 といふのは女性+男性=結婚となり、2x3=6 といふのは女性x男性=恋愛となり、4+5=9 は正義+結婚=理想となるのださうである。なるほど。すると、男性から理性を引くと女性になるのか。男性にさらに理性を足せば正義になるのか。なるほど、なるほど。しかし、ここで僕は考へ込んでしまった。子供の時から 2 が好きであったといふことは、つまり、僕はやはり天性の色好みではなかったのかとふと不安になったのである。

 

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直線に伸びる雲も好きである

 

日本の歌

2021-02-07 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 26 日> (先勝 丙戌 五黄土星) Rikard Dick  第 5 週 第 26294 日

 

夜、横になりながら机上のスピーカーから流れる日本の歌に耳を傾ける。すると内側から鎮められるような感じがした。若い時から僕は空想する癖があった。通学でバスに乗った時など、窓を見ながらいつも何かを空想してゐた。若い時の勉強に身が入らなかったのはこの空想癖があったからだと思ふ。いま、ひとりで音楽を聴きながら身を横たえてゐると、そんな若かった頃の自分が戻って来るようにも思はれた。人は成長し、世の中をわたるうちに、その性格も環境に順応していくものだ。しかし、年老いてくると、生まれながらに持ってゐた性質が再び立ち現れて来るような気もする。僕は自分といふものがこの年になってもよく分からない。真夜中に音楽を聞いてゐるとそんな気がした。でも、そんな時の音楽は決まって日本の歌なのである。外国に住んでも、僕の場合、日本の歌は欠かせないかなと思ふ。

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今日は散歩もせずにずっと家に居た

 

パズル

2021-02-06 (土)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 25 日> (赤口 乙酉 四緑木星) Dorotea Doris  第 5 週 第 26293 日

 

同居人が1000ピースのパズルを始めた。パズルといふのは、掃除の敵なのであるが、それ以上に、出来上がった時にそれをどうするかといふ点が厄介である。せっかくの作品が出来上がっても、それを飾る置き場所に困るからだ。出来上がったらまたバラバラにして誰かにあげれば良いのかもしれない。こんな後のことを思ふのも年をとったせいだろうか。忙しい人には時間の無駄かもしれないが、何もやる気がしない時、パズルは案外楽しいものだ。機械や電気を全く使はずにできる点も良い。「あなたもやって良いのよ」と同居人が言ふから、空いてゐる時に僕も参加してみた。始めたばかりなのでまだ、周囲も完成してゐない。パズルで困るのはいつやめるかといふ点だ。ひとつピースを埋めることができたら、その日はそれでおしまひにしようかと思ふが、つい欲が出てその次を埋めようとする。ずるずると引き込まれてしまふ。暇な老人が言ふのもをかしいが、時間を決めて切り上げるのもひとつの方法かもしれない。明日になればまた新しい見方で続きを始めることができるかもしれない。

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「春立つけふの風やとくらむ」高校1年の時に推量の助動詞「らむ」の例として習ったが、スーパーの軒下のつららは毎日少しづつ長くなる様である。

 

折紙つきの折紙師

2021-02-05 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 24 日> (大安 甲申 三碧木星)下弦 Agata Agda  第 5 週 第 26292 日

 

ストックホルムに天才的折紙師が住んでゐる。と言へば、ああ、あの人ねとわかる人が多いのだが、念のために書くと、鳥本範さんといふ人である。飛ばせば必ず自分のところに戻ってくる紙飛行機とか、ニルスのふしぎな旅の折り紙とか、何年か前には、政治家たちの顔の特徴を捉えて折り紙で表現したこともあった。折り紙を使って数学を理解することも提唱し、スウェーデン社会で教育の面でも貢献が大きい。様々な折り紙を一体どんな風にして創作するのか、僕には想像もつかないのだが、将棋や囲碁をやる人が何手も先を読む様に、頭の中に立体的な複雑な組み立てが先へ先へと湧き上がってくるのに違ひない。紙には厚みがあり、折るたびに厚みが増すので、その厚みも計算に入れるさうである。この人に直接会ふことは少ないのだが、それでも30年にわたって昵懇にして頂いてゐる。先日、牛の折紙作品を送ってくれた。机の上に飾ってゐるが、貴重な作品なので、少しでも人の目に触れる方が良いかと思って、今日のブログで書くことにした。牛は全長13センチ、高さ8センチほどで手のひらに乗る大きさであるが、元の紙は一辺が35センチの正方形の越前和紙である。切り込みを入れずに折り込んでここまで作るのだからすごいと思ふ。僕らは紙なら世界中どこの国でも同じと思ってしまふが、本当に折り紙に適した紙は日本にしかないさうである。湿度などの関係で微妙に伸びる時も、日本の紙は縦横同じ割合で伸びるので良いのださうである。また、塗装の仕方なども折り紙に最も適した方法が採られてゐるのは日本のものだけださうである。折った時の手応へもずいぶん違ふらしい。出来上がった作品は時々手入れする必要があるさうである。といふ話を聞けば、無造作に机の上に置くのは失礼な話なのだが、毎日眺めるためにやはり机の上に置くとことにした。ところで、この鳥本さんは実は僕と同じ福井の出身で、しかも学年も同じである。別々の高校に行ったから面識もなかったが、鳥本さんが中学校の時に同級だった人たちと僕とが同じ高校で席を並べたこともあり、ストックホルムで昔話に花を咲かせたこともある。僕は早生まれで丑年の生まれなので、今年は年男といふこともあり、送ってくれた。貴重なものをいただいてありがたい。なほ、鳥本さんのホームページは https://torimoto.se である。

 

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牛は大地をふみしめて歩く ー 鳥本範さんの作品 「牛」

 

脳トレは苦手

2021-02-04 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 23 日> (仏滅 癸未 二黒土星) Ansgar Anselm  第 5 週 第 26291 日

 

老化防止のために脳トレゲームなどが世の中では提案されてゐるが、あれはどうも、僕の場合には効果がないのではないかと思ふ。衰へ始めた脳といふものは、どこかおどおどとした心理を持つものである。「自分はまた間違へたのではないか」「自分はまた忘れたのではないか」といふ様な自責の問ひかけが絶えずある。その様な不安を取り除くことがまづ第一ではないかと思ふ。そんなところに、義務感にかられて脳トレをしても、むしろ逆効果になることさへあるのではないかと思ふ。天才バカボンの父ちゃんの名言「これで良いのだ」は、若い頃は批判的に感じてゐたが、この頃はそれもひとつの生き方かもしれないと思ふ様になった。まづ、心の愁ひをはらひのけることが肝要ではないかと思ふ。そのためには音楽を聞いたり、あるいは自分で楽器を演奏してみたり歌ってみたりすることの方が脳の活性化には良いと思ふ。もちろん、脳トレで効果を上げる人も多いと思ふから、何もけちを付けるつもりではないが、全ての人には当てはまらないかもしれないといふだけだ。生き甲斐とか生きる歓びが感じられる何かを見つけることの方が大事な気がする。自分にあった自分だけのボケ防止方法を探すことができれば良いと思ふ。最近はコロナで自宅に閉じこもる人が増え、脳の働きも鈍くなる人が増えるのではないかと心配である。

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立春過ぎれば、少しづつ春を感じる日もある。が、今日も氷点下。夜は-14℃になった。

 

忠孝のほかのもの

2021-02-03 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 22 日> (先負 壬午 一白水星)立春 Disa Hjördis  第 5 週 第 26290 日

 

「忠」といへば、主君に対する忠誠。「孝」といへば、親を思ふ心である。「忠」と「孝」とは元々は中国から伝はった儒教の大事な考へ方である。儒教にはこの他に、「仁・義・礼・智・信」が、五常とか五徳とか呼ばれて大事な徳目と考へられてきた。江戸時代の南総里見八犬伝にはこの他に「悌」も出て来て併せて八つの徳となってゐるが、この「悌」は年長者に從ふ意味である。いづれの徳も漢字一文字で表されてゐる。けれども、実際にこの世の中で生活してみると、これらの教へではカバーしきれない大事なことが身近にあるのではないかと思ふ。それは、例へば夫婦の間の思ひやりとか近所づき合ひの情けといったものである。夫婦といふのはもともと他人であるから、共同生活をする時に生じる忍耐は、血の繋がった親子以上に大きいものがあるのではないかと思ふ。しかし、それはどんな漢字で表はされるのだろう。明治時代の教育勅語儒教の流れを汲むが、「爾臣民は、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、、」と出てくる。夫婦の思ひやりが漢字一文字では表はされてゐない。昔から男と女の理想の姿といへば、比翼の鳥だとか連理の枝だとか、どこか性的なグロテスクな一面を暗示する表現しか出てこない気がする。性的な営みはいったん横において、共同生活するものの持つべき思ひやりの心、相手を尊敬する気持ちなどを儒教は問ふてゐないのではないか。現代社会で、家庭内暴力とか性犯罪が多いと聞くが、それにはその様な方面でのあるべき姿を問ふことがおざなりにされてきたことの結果ではあるまいか。儒教が一般に古めかしい印象を持たれるのもそのせいかもしれない。現代に生きる我々は、儒教に足りなかったその様な面を生活の中で強化していかなければならないのではないかと思ふ。

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よく晴れたが、気温は氷点下で雪はとけない。

 

教訓状の感想

2021-02-02 (火)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 21 日> (友引 辛巳 九紫火星)節分 Kyndelsmässodagen  第 5 週 第 26289 日

 

昨日のブログを書いた時、平重盛のあの明快な教訓は、鎌倉時代以降これまでにどれだけ多くの日本人たちの共感をそそってきたことだろうかと思った。この節のあとすぐに、有名な「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」といふ言葉が出て来る。この世で功なった人たちは得てしてその賞に誇り、平清盛がさうであったように、この程度の報酬は受けて当然だと思ふようになる。しかしそこを慎むのが人の道だと重盛は言ふ。日産元会長のゴーンさんに聞かせてあげたい話だ。ゴーンさんばかりではない。たった1%の富裕層が世界の富の大半を保有してゐるなどのニュースを聞くと、集まってしまった富をどの様に社会に還元するべきかを決めるのは富裕層の人々自身に天が課した重大な責務であると僕は思ふ。その様な志を持たない富裕者は、長い年月のうちには、天命のうちに滅んで行くであろうと、平家物語を読んで僕は思ふのである。最近「資本主義の時代は終はった」とか言はれることがあるのも、資本主義が悪いと言ふよりも、資本家がその様な私欲を抑へる自覚を持たないからであると思ふ。

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夜の闇に白い枝が伸びる。