忠孝のほかのもの

2021-02-03 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 22 日> (先負 壬午 一白水星)立春 Disa Hjördis  第 5 週 第 26290 日

 

「忠」といへば、主君に対する忠誠。「孝」といへば、親を思ふ心である。「忠」と「孝」とは元々は中国から伝はった儒教の大事な考へ方である。儒教にはこの他に、「仁・義・礼・智・信」が、五常とか五徳とか呼ばれて大事な徳目と考へられてきた。江戸時代の南総里見八犬伝にはこの他に「悌」も出て来て併せて八つの徳となってゐるが、この「悌」は年長者に從ふ意味である。いづれの徳も漢字一文字で表されてゐる。けれども、実際にこの世の中で生活してみると、これらの教へではカバーしきれない大事なことが身近にあるのではないかと思ふ。それは、例へば夫婦の間の思ひやりとか近所づき合ひの情けといったものである。夫婦といふのはもともと他人であるから、共同生活をする時に生じる忍耐は、血の繋がった親子以上に大きいものがあるのではないかと思ふ。しかし、それはどんな漢字で表はされるのだろう。明治時代の教育勅語儒教の流れを汲むが、「爾臣民は、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、、」と出てくる。夫婦の思ひやりが漢字一文字では表はされてゐない。昔から男と女の理想の姿といへば、比翼の鳥だとか連理の枝だとか、どこか性的なグロテスクな一面を暗示する表現しか出てこない気がする。性的な営みはいったん横において、共同生活するものの持つべき思ひやりの心、相手を尊敬する気持ちなどを儒教は問ふてゐないのではないか。現代社会で、家庭内暴力とか性犯罪が多いと聞くが、それにはその様な方面でのあるべき姿を問ふことがおざなりにされてきたことの結果ではあるまいか。儒教が一般に古めかしい印象を持たれるのもそのせいかもしれない。現代に生きる我々は、儒教に足りなかったその様な面を生活の中で強化していかなければならないのではないかと思ふ。

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よく晴れたが、気温は氷点下で雪はとけない。