ワイシャツ

2022-10-02 (日)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 7 日>(先負 戊子 六白金星) Ludvig Love 第 39 週 第 26899 日

 

定年退職して既に7年経つ。もう何年もワイシャツを買ってない。それでも一番新しく買った2枚のワイシャツには、それなりに一番良いワイシャツだといふ矜持がある。ところが、今日、よく見るとその襟のところが擦り切れだしてゐるではないか。もう新しいワイシャツを買はねばなるまいと思った。でも、古くなったワイシャツはすぐに捨てるのではなくて、当分の間は家で着るレベルのワイシャツに格下げするだけである。古くなったシャツの方が、掃除などの作業もできるし、実用的であるのだ。安心感も愛着もある。ただ、散歩の時やちょっと外へ出る時に、なるべく着替へる様にしてゐる。家を出る時と帰ってからと2度着替へねばならない。するとこれがなかなか面倒である。ところで、スウェーデンに引っ越して来た時、毎日ワイシャツで通勤しても、日本に居た時ほどワイシャツが汚れないことに驚いた。湿気や暑さのせいもあるかしれないが、空気が汚れてないからであると思った。ワイシャツが長持ちしたことにはその様な理由もあるかしれない。

近所の秋。今日は時々雨が降った。

 

コロナ感染症の流行は収まったのだらうか

2022-10-01 (土)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 6 日>(友引 丁亥 七赤金星) Ragna Ragnar 第 39 週 第 26898 日

 

コロナパンデミックが始まったのは2020年3月であった。2月中旬にクロアチアボスニア・ヘルツェゴヴィナモンテネグロなどを旅したのだが、その時はヨーロッパにもコロナが流行り始めてゐたので内心で大丈夫かなと心配しながらの旅であった。でも、ツアーに参加した人たちは、さほど気にかけてゐる様子もなかった。ところが、スウェーデンに帰ってからすぐに、イタリアやスペインで大流行し、医療崩壊も起きた。3月には日本に行く予定で、切符も買ってあったのだが、キャンセルすることになった。日本とスウェーデンの感染者の数はどんな風だらうと気になって、新聞の情報などをもとに自分で表計算ソフトに感染者数などを記入し始めたのは 2020 年2月24日であった。それ以来、ほぼ毎日、この表に数字を記入することが日課の一つとなった。スウェーデンでの感染者数は、2022年4月頃には週1回木曜日に更新されるだけになって、その頃から、社会にある程度コロナが広がるのはやむを得ないといふ雰囲気が支配的になった気がする。この頃は日本でもその様な雰囲気を感じる。日本での感染者の数は、この頃は落ち着いて来てゐる様に感じられる。重症患者数も9月29日には全国で200人を下回った。でも、47都道府県の全県で感染が確認されてゐて、まだ、収束した訳ではないと思ふ。これからの時代を生きるのに、感染症が流行するリスクを考へなければいけなくなったのはちょっとつらいと思ふ。日本でも外国へ行ってみたいと思ふ人の数が、コロナの前に戻るのはいつ頃になるかなと思ふ。

傘を持って散歩に出たが降られずにすんだ。

 

「出船」

2022-09-30 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 5 日>(先勝 丙戌 八白土星) Helge 第 39 週 第 26897 日

 

同居人が、今日は珍しくピアノを弾いた。杉山長谷夫作曲の「出船」も弾いてくれたので、その伴奏に合はせてつい声を出して歌ってしまった。すると、音楽を聞いてゐるだけの時とは違った感動が、ほんの一瞬だけど、スッと通り過ぎた。その一瞬は、カラオケで歌ったとしても現れることのない感動の様に思はれた。コロナの3年間、歌ふことを全くしなかったこともあってか、ああ、歌ってみるって良いことなんだなと思った。僕はこの「出船」が大好きで、歌ってみると、歌詞は一番も二番も覚えてゐた。この歌は高校1年の時の音楽の時間に習った様に記憶してゐる。あの若かった頃の自分に帰ることができる様な気もした。あの頃の教科書はもう持ってないが、ブラームスの「日曜日」とか、ベートーベンの「自然における神の栄光」とか、グリーグの「ソルベーグの歌」なども習って、(自分では歌へないのだが)いづれも好きな曲であった。日本の曲の中では、この「出船」のメロディーがいかにも日本的で、好きである。

この木々の向こうは小学校である。

 

お掃除とお洗濯

2022-09-29 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 4 日>(赤口 乙酉 九紫火星) Mikael Mikaela 第 39 週 第 26896 日

 

掃除については掃除機を使はない主義であるが、洗濯については洗濯機を使ふ。洗濯機は家事を助けるが、掃除機はさほど家事を助けるとは思はない。いっときルンバを使ったが、始める前に床に置かれたものをどかしてやらねばならなかった。これが結構な作業で、ルンバを使はない掃除の場合でも床に何も置かれてなければ、掃除は断然効率良くできるものだ。掃除をしやすくするために普段から床にものを置かない癖をつけようといふ意識が高まった点では、ルンバを利用したことの唯一良かったことだが、いまはもうルンバを使用しなくなった。一方で、洗濯はほとんど洗濯機任せである。といっても、洗濯機のスイッチを入れたり、干したりするのは同居人がやる。新しいワイシャツを買った時などは、最初のうちはそれだけは自分で手洗ひすることもあったが、やがてそれもしなくなった。僕が子供の頃は家に洗濯機などなかった。昔話には、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」といふフレーズが出てくるが、冬の寒い日など、川での洗濯は本当に大変なものであったらうと思ふ。現代は色々な家電製品が家事を助けてゐる様だが、一番家事を助ける電気製品は何かと問はれれば、僕は「洗濯機」と答へたい。

入り日が美しいのはほんの短い時間だけである。

 

田辺聖子の万葉散歩

2022-09-28 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 3 日>(大安 甲申 一白水星) Lennart Leonard 第 39 週 第 26895 日

 

新聞の読書案内記事などを見ると、読んでみたくなる本が毎週たくさん紹介されるのだが、とても読む時間がない。いつも家で隠居生活を送ってゐるだけだし、自粛生活なので、時間がないはずはないのだが、結局は僕は本を読むのがそれほど好きではないのだなと思ふばかりだ。本を読むといっても、僕の場合は日本に居ないので、 Kindle 端末で電子書籍を読むのである。 Kindle 端末には、ポーズになると、こんな本もありますよ、いかがですかと、購読を誘ふ画面が現れる。今日は「田辺聖子の万葉散歩」といふ本が現れた。それを眺めるうちに急に思ひたって、その本を購入した。その場で一瞬で購入手続きが完了してしまふのが便利といへば便利だが、やや怖い。僕は田辺聖子の密かなファンであるが、書かれたものをそんなには読んでない。でも、田辺聖子の書かれたものでも特に良いなと思ふのは古典案内に関する本である。「田辺聖子の万葉散歩」もまさにそんな本の一冊ではないかと思ふ。2020年6月23日発行、中央公論新社となってゐる。概して古典案内の本は女流作家によるものの方が楽しい気がする。どうかすると、僕は古今集とか、または新古今集の雰囲気の方に惹かれやすいのであるが、時々万葉集に触れると、新鮮な感動を覚えることがある。万葉集全20巻、4500首といはれるが、これは古代からの民族詩集を集めた日本の大きな文化遺産であることを改めて思ふ。あとでこの本を読むのは楽しみである。

家の近所の秋

 

掃除機を使はない掃除

2022-09-27 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 2 日>(仏滅 癸未 二黒土星) Dagmar Rigmor 第 39 週 第 26894 日

 

僕のこれまでの人生の中で、掃除の仕方の移り変はりについて考へることがある。いまのやり方は掃除機を一切使はないやり方である。つまり、掃除道具としては、ホウキ、チリトリ、ハタキ、モップ、雑巾、ポリバケツくらいのものか。電気掃除機を使ってゐた時代もあるし、ルンバを利用した時代もあるが、今はそれらを利用せず、もっぱら古典的な人力掃除に戻った。ただ、吸引してゴミを取り除いた方が良い場合もありうるので、電池駆動の小型の掃除機は置いてある。電気掃除機の嫌な点は音がすることだ。掃除は静かにしたいものだ。広い部屋があるなら、その部屋をルンバに任せることも考へられるが、僕らの住む小さなアパートではサッとモップがけをする方が短時間に掃除ができる。割と頻繁に掃除をしても、いつこんなにたまるのだらうと思ふほどチリが集まる。いかに床が綺麗になったかは評価せず、いかにチリが集まったかのみで評価する。集まったチリはゴミ箱に捨てて、小さな布でチリトリを拭き取る。その小さな布とは古くなったタオルや靴下などを切って用意して置き、拭き取ったら捨てるのである。また、ホウキの先はその都度ブラシがけをする。洗濯は洗濯機を利用すべきだと思ふが、掃除は掃除機を使はない主義である。お坊さんが竹箒で庭を掃除する姿は想像できるが、お坊さんが盥で洗濯する姿はあまり絵にならない様な気がするからだ。

掃除のことを書いたついでにここで僕の理想とする掃除機のイメージを書いてみると、真空で吸引するのではなく、静電気でチリを集める掃除機だ。ソフトボールくらいの大きさのものが家の床を行き来してチリを集めて回る。時々、トンネルをくぐらせて、トンネルの中でチリを落としたり、休んで充電したりする。そのボールの表皮は着脱して水洗ひできる様にする。「部屋が汚れてきたから始める掃除」ではなくて、「部屋が汚れないうちにチリを集める掃除機」がコンセプトである。そんな音のしないお掃除ロボットができないものかなと思ふ。

今日も低気圧であった。

 

宣旨・令旨・院宣

2022-09-26 (月)(令和4年壬寅)<旧暦 9 月 1 日>(先負 壬午 三碧木星新月 Enar Einar 第 39 週 第 26893 日

 

平家物語・巻第四の「信連」は昨日のブログで読み終へたが、「宣旨とはなんぞ」といふ言葉があった。本当の宣旨とは天皇が出されるものだと思ふのだが、清盛の命令であるのに、検非違使庁はそれを「宣旨」と呼んだ。そこに平氏の思ひ上がり、もしくは強い平氏への忖度があるのではないかと思ふ。一方で、高倉の宮の平氏追討の命令は「令旨」と呼ばれた。天皇ご自身ではなく、皇太子や親王の命令で出されたものが「令旨」であるとモノの本にあった。また、後白河院の場合の様に、法皇もしくは上皇が何か命令をお出しになる場合には「院宣」と呼ばれた。明治時代から太平洋戦争までの間には、「勅令」といふ言葉もあった。帝国議会の協賛を経ずに、天皇の大権によって直接に発せられる命令をいふと、新潮国語辞典にあった。これも軍部の一部の人が、自分の意見であるのに、あたかも天皇の御意志であるかの様に言ひふらすことが起こるのではないか。日本といふ国では昔から、お上の命令に弱かったことがわかる。明日は安倍元首相の「国葬」が行はれる日だが、多くの反対者がデモをする中で行はれる国葬の形は美しいとは言へない。「美しい日本の醜い国葬」になってしまはないかと恐れる。安倍氏を尊敬する人でも、国葬には反対だといふ場合もありうるのではないかと思ふ。僕も国葬にどちらかといへば反対であるが、それは、国葬の様な行事を認めることで、知らず知らずのうちに、上から出された願望的な命令に人々は皆従ふべきだといふ空気が社会にみなぎり始めるのではないかと恐れるからである。国民の性格にその様な下地があることは平家物語の時代から変はってない様にも思ふ。

今日は低気圧。時々雨が降った。秋雨といふのかな。