Middle Reset

2024-03-18 (金)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 9 日>(仏滅 辛巳 六白金星) Matilda Maud    第 12 週 第 27432 日

 

世界経済や社会の仕組みを根本から全部リセットすることをグレートリセットと呼ぶらしい。リセットとはご破算であり、近年ゲームの発達とともに、人間は万事に手軽にリセットボタンを押す傾向がある気がするが、これはまた別問題。それほど大きなリセットではないけれども、時により、自分の身体がリセットを要求してゐると感じることがある。それは僕個人としては大きな問題であるので、その状態のことをミドルリセットと呼ぶことにした。自分だけに通用する勝手な言葉の用法である。で、先週末からこのミドルリセットが起きて、三日間ほど寝込んだ。病を得た時、症状を見て自分で勝手に病名を判断してしまふことほど危ふいことはないと知ってゐるが、それでも長年スウェーデンに住んでゐると、これしきのことで病院へ行く気がしない。若い頃からこれは繰り返し寄せては返す波の様に現れる現象であり、気休めにパブロンか何か飲んで、何日か寝てゐれば治るので、治るまで寝ることに決めるのである。むろんパブロンが効いたのかどうかはわからないのだが薬とは本来その様なものだ。ただ、コロナ下での3年間は恐ろしくもあったし十分に休養をとったからだらうか、ミドルリセットは一度も起きなかった。ある意味ではミドルリセットが起きることは、身体の方から「お前さん、限界だからこれ以上頑張りなさんなよ」といふシグナルを出してくれてゐるのである。ありがたいことだと思ってゐる。あたかも電気回路でモーターが過負荷になるとサーマルリレーの働きで開閉器が開く様なものである。身体の頑健な人は過負荷でも頑張ってしまふので大きな病に陥ってしまふ恐れがあるが、僕らの様に弱い人間はこの安全装置のおかげで助かるのである。昔の人はこれを一病息災と呼んだ。それにしても仕事も持ってないのに何でそんなに疲れるのであらうか。どんな所業も自分の意思でやるのであって、別に誰に強制されるわけでもない。でも、日常の細々とした実になんでもない作業、たとへばその日の買い物のレシートをスキャンするとか、来た郵便をスキャンするとか、それに名前をつけて保存するとか、家計簿をつけるとか、メールをチェックするとかが、積もり積もって負担になるのかなと思ふ。「無駄なことに時間を費やして」と自分でも思ふのだがやめられない。ブログを書くのもさうかもしれない。机に向かはずに、全部忘れて、ただ寝るだけの時、なんとも言ひようのない安楽に心身が憩ふのを覚える。不思議であるのは身体の方はそのリセットのタイミングを自分の意思とは無関係なところで、しかし休むべき時期をキチンと見計らってくれることである。身体の働きとは摩訶不思議なものである。

天気の良い一日であった

 

防災を思ふ

2024-03-14 (木)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 5 日>(赤口 丁丑 二黒土星) Matilda Maud    第 11 週 第 27428 日

 

今週の月曜日(3月11日)は東日本大震災から13年目の日であった。この時の巨大地震の特徴は大津波を引き起こしたことと、原子力発電所の大事故を併発したことであった。今年は元旦に能登半島で大地震があった。日本海側で起きたこの地震でも津波の被害があった。志賀原発も心配であったが、大事故に至らずにすんだ。そのほかこの13年間にあった地震を振り返ると、2016年に熊本地震、2018年に北海道胆振東部地震などがあった。これらを体験した日本で、震災への対策が具体的にどれだけ進んでゐるかはわからないが、折に触れて過去の地震を忘れないでゐることが、個人のレベルでできる備への第一歩かなと思ふ。スウェーデンに住めば地震の被害にあふことはないと思ふが、災害はどんな形で襲ひかかってくるかわからない。また、日本に滞在する間に被災することもありうる。なるべく高度な文明を享受しないこと、日頃から不便な暮らしを厭はないことが減災の秘訣かと思ふが、社会の中で暮らせば自分だけが別な方法をすることも難しいものだ。

プールの近くの散歩道

 

オッペンハイマー

2024-03-13 (水)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 4 日>(大安 丙子 一白水星) Greger    第 11 週 第 27427 日

 

今年のアカデミー賞では宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」(長編アニメーション賞)と「ゴジラ-1.0」(視覚効果賞)の日本作品が受賞した。また、作品賞などを「オッペンハイマー」が受賞した。「オッペンハイマー」は2月ごろであったか、僕の住む町の映画館でも上映されたのだが、それは1日限りの上映であった。たまたまその日は他に予定があったので見に行くことができなかった。だが、偶然にも藤永茂著・ちくま学芸文庫の「ロバート・オッペンハイマー ー愚者としての科学者」といふ本をkindle版で読んだ。読後感は複雑で、何とも自分の頭がひとつの結論の様なものに収斂しない。オッペンハイマーの言葉は、それが語られた時の文脈こそが大事であるのに、言葉だけが切り離されてひとり歩きをし、それが世の中に広められて、誤解がますます広がると言ふ印象を受けた。例へば「技術的に甘美」とか「今、われは死となれり。世界の破壊者とはなれり」といふヒンズー教聖典からの引用がひとり歩きをするのである。オッペンハイマーは科学者の責任と罪を転嫁しようとしたのではない。悪魔に魂を売ったのでもない。苦悩の人であったが、原爆製造のプロジェクトを率いたことへの過去の過ちを悶々と悔いるといふ風ではない。今この状況から、いかにして人類は調和できるかといふ希望に向けて全身全霊を傾けて苦悩した人であった。核兵器戦略爆撃に使用されることを阻止するために奔走したと言っても良い。今、「核兵器のない世界」を求める世論や運動がどんなに広まったとしても、もしこの物理学者が歩んだ苦悩と云ふものに無頓着なまま進められたのであれば、それは薄っぺらな運動であるといふしかない。オッペンハイマーは正直な人、純粋な人、良心の人、学問の人であった。その人にして、この悪魔の兵器を開発せねばならなかった矛盾をどう繋ぎ合はせて良いものやら。核兵器は絶対悪であるけれども物理学そのものが悪であるはずがない。核時代の危機を招来した責任をひとり物理学者におはせて、自分たちは無罪だと思ひこむところに、私たち人間の大きな過ちといふか、原罪がある様に思ふ。

春を待つ桜の木に巣箱が設けられて

 

平家物語 巻第五 「富士川 8」

2024-03-12 (火)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 3 日>(仏滅 乙亥 九紫火星) Kronprinsessans namnsdag Viktoria Regina    第 11 週 第 27426 日

 

そして10月23日になった。明日はいよいよ源平両軍が富士川をはさんで戦闘開始と決まった。夜になった。平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆・駿河の人民・百姓らがいくさを恐れて、野に入るものもあれば、山に隠れるものもある。あるいは船にとり乗って海河に浮かぶものもある。その者たちが食べ物を煮たり焼いたりする生活の火があちこちに見える。平家の兵士たちは「ああ、何といふ源氏の陣の遠火の多いことであらう。なるほど、昨日とらへた源氏の兵卒が言った様に、本当に野も山も海も河もみな敵でいっぱいであることよ。どうしようぞ」と言って落ち着きを失った。それからさらに夜がふけた。富士の沼にいくらも居る水鳥どもが、何かに驚いたのであらうか、いっせいにバッと飛び立った。その羽音たるや凄まじく、まるで大風が寄せたかまたは雷かと聞こえたので、平家の兵士たちは「そら、源氏の大軍の襲来だぞ、斎藤別当が言った様にきっと搦手に回るのであらう。挟み撃ちにされては大変だ。ここはいったん引いて尾張川(木曽川)の墨俣(岐阜県安八郡)を防げや。」と言って、とるものもとりあへず、我さきにと逃げ出した。あまりに慌てるものだから、弓を取ったものは矢を忘れ、矢を取ったものは弓を忘れ、人の馬に自分が乗り、自分の馬は人に乗られるといふあり様である。あるいは馬が繋がれてゐるのに気づかずに杭の周りを回るだけのものもゐる。近い宿場から遊君遊女などが来て兵士たちの相手をしてゐたのだが、頭を蹴割られたり、腰を踏み折られるなどして、絶叫するものが多かった。

24日の朝が来た。6時ごろになって、源氏の大勢20万騎が富士川に押し寄せた。彼らは、天も響き、大地も揺るぐほどに、三度の鬨の声をあげた。

曇り空の中の明るさ

 

平家物語 巻第五 「富士川 7」

2024-03-11 (月)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 2 日>(先負 甲戌 八白土星) Edvin Egon    第 11 週 第 27425 日

 

また、大将の維盛は、東国の案内者として、長井(埼玉県大里郡)に住む斎藤別当実盛を呼んで質問した。(斎藤家は代々越前の家だったが実盛の時、武蔵国に移った。実盛は保元・平治の乱では源義朝についたが、義朝の死後は平宗盛・維盛に仕へた。後に木曽義仲と戦って戦死。実盛が首を洗ったと伝はる池が近くにあるとか、子供の頃に聞いたことがある。注記がちょっと脱線した)。「やや実盛、汝ほど強弓をひくものは八カ国にどれほどあるか?」と聞くと実盛はフフンと笑って答へた。「といふことは貴方様はこの実盛を大矢(長い矢)の使ひ手とお思ひですか。私はわづかに十三束の弓を使ふだけです。これくらいの弓を射るものなら八カ国にいくらでもをります。大矢と名乗るもので十五束以下の弓を引くものなどをりません。長さばかりでなく、弓の強さにしても大変なものです。腕っぷしの強いものが5、6人かかって張ります。この様な精兵が射れば、鎧が二つ三つ重なってもたやすく射通してしまひます。土地の豪族で大名と呼ばれる人なら、勢が少なくても五百騎以下といふことはありません。馬に乗ったら落ちるといふことを知りません。険しい場所でも馬を倒さずに走ります。いくさとなれば親が討たれやうが子が討たれやうが屍を越えて戦ひます。西国のいくさといへば、親が討たれれば供養して、その忌みが明けてから寄せ、子が討たれればその悲しみに戦意をなくしてしまひます。兵糧米が尽きれば、田を耕して収穫してから戦ひます。夏は暑いと言ひ、冬は寒いと言って嫌ひます。東国では様子が全然違ひます。甲斐・信濃の源氏どもはこの辺の地理に通じてます。富士の裾野から搦手にまはることでせう。こんなことを言へばあなた様を臆するだらうと思って言ふのではありませんよ。いくさは勢にはよらず、計略によって勝負が決まることを申し伝へたいのです。実盛は今度のいくさに命生きて、再び都へ参らうなどとは思ってません。」と言ふので、平家の侍どもはこれを聞いて、みな震へわななきあった。

雲を見て感動する日もある

 

平家物語 巻第五 「富士川 6」

2024-03-10 (日)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 1 日>(友引 癸酉 七赤金星)新月 Edla Ada    第 10 週 第 27424 日

 

一方で頼朝方の軍勢はといへば、駿河国黄瀬川に着いた。甲斐・信濃の源氏が馳せ参じてひとつになり、浮島ヶ原(沼津の西、田子の浦のあたり)で勢揃ひした。軍勢を記した帳簿には二十万騎とある。常陸源氏佐竹太郎の雑色が、主の手紙を持って京に上るのを、平家の先陣にゐた忠清が見つけて調べた。あけてみれば、女房の元へ宛てた手紙である。差し支へあるまいと思ってその手紙を返してやった。そのついでに質問した。「そもそも頼朝殿の軍勢はどれくらいあるのか」雑色は「およそ八日九日の道には隙間なく兵士が続いて、野も山も海も河も武者でいっぱいです。私は四百、五百、あるひは千までなら数を数へられますが、それ以上はもうお手上げです。それで多いのやら少ないのやらはわかりませんが、昨日、黄瀬川で人が話してゐるのを聞けば源氏の御勢二十万騎とか言ってました。」と答へた。忠清はこれを聞いて、「あはれ、大将軍がこれまでのんびりしてをられたことが何とも悔しいことだ。一日でも早く先手を打ってゐたならば、そして足柄の山うち越えて八カ国へ出陣してゐたならば、畠山一族、大庭兄弟などはどうして馳せ参じないことがあったらう。これらの援軍があれば、坂東にはなびかぬ草木もなかったであらうに」と後悔したけれどもその甲斐はなかった。

Stockholm へ行った

 

平家物語 巻第五 「富士川 5」

2024-03-09 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 1 月 29 日>(大安 壬申 六白金星) Torbjörn Torleif    第 10 週 第 27423 日

 

平家の軍勢は京の都を立って、遠い東海の地へと進んだ。無事に帰って来られるかどうか誰にもわからない。あるひは野原の露に宿を借り、あるひはたかねの苔に旅寝をし、山を越え河をかさね、何日も進んだ。そして10月16日には駿河国清見が関(現・静岡県静岡市清水区興津)に着いた。都を出た時は三万餘騎であったが、途中から加はる兵士も集めて、七万餘騎に膨れ上がった。先陣は蒲原・富士川に進み、後陣はまだ手越・宇津屋(安倍川のあたり)に居た(富士川から安倍川まで30kmほどある)。大将軍権亮少将維盛は侍大将上総守忠清を呼んで「私の考へでは、足柄を越えて坂東で戦をしようと思ふ」とはやったが、忠清が言ふには「福原を出発した時、清盛様から作戦については忠清に任せる様にとのご命令がありました。八カ国の兵士たちがみな頼朝についてあれば、その数は何十万騎にもなりませう。我が方は七万餘騎あるとは言っても、諸国からかり集めただけの兵士です。馬も人も疲らせてしまひました。伊豆・駿河から当然馳せ参ずるはずのものたちもまだ見えません。ここは富士川を前にして味方の軍勢が集まるのを待つべきだと思ひます。」と言った。維盛の力およばず、軍師忠清の言ふ作戦にしたがふことになった。

気温は低いが春の感じあり