地球環境と戦争

2022-05-16 (月)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 16 日>(先勝 己巳 九紫火星)満月 Ronald Ronny 第 20 週 第 26766 日

 

僕らが住むこの地球に、人類はいつまで暮らせるのだろう。世界の各地で大洪水が起きたり、森林火災があったり、氷山が解けたり、海面上昇があったり、四季の移り変はりが穏やかでなくなったり、酸性の雨が降ったり、海はプラスチックで汚れたりしてゐる。元に戻すためにはもはや一刻の猶予もならないと思ふのだが、そのようなことを本気で心配する人は少ないように見受けられる。特に今はウクライナ情勢に人々の関心が集まってゐる。この戦争でまたさらにどれだけ地球環境が悪化するのだろう。単に戦場の町が破壊されるだけでなく、僕らにはわからないが、数多くの武器が生産される途上で環境に大きな負荷がかかってゐるのではないかと思ふ。戦争が勃発すると軍事産業が盛んになって人々の雇用が増え、経済のために良いのだといふ人もあるのかしれない。しかし、ただ破壊するだけのために回る経済に良いことがあるだろうか。スウェーデンNATO 加盟の問題にしても、さうした方がスウェーデン軍需産業のために良いからと思ってゐる人もゐるかもしれない。1960年代には日本は高度経済成長を遂げたが、あれは朝鮮戦争の軍事特需がきっかけであったことを忘れてはいけないと思ふ。朝鮮の人たちが戦争で苦しむのを尻目に日本は金儲けをしてゐたといへなくもない。今は地球に住む人々が力を合はせて環境の改善を図らなければならない時なのに、当事者たちはどんなつもりでいつまで戦争なんか続けるのだろう。

Nyköpingshus と噴水

 

幸せな時間

2022-05-15 (日)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 15 日>(赤口 戊辰 八白土星) Sofia Sonja 第 19 週 第 26765 日

 

公園などで、ベンチに座ってゆっくりと時を過ごす人を見かけることがある。いいなあと思ふ。自分だってやろうと思へばいつでも出来るはずなのだが、性格によるのか、なかなかそんな贅沢な時間を味はふことがない。けれども、今日は、Stockholm に行って町に自動車を止めてから、ちょっと待ち時間があって、ひとり散歩した。Engelbrektskyrkan は町の中の小高い丘にあって、その階段を上り下りすれば少し足腰の運動になるかと思って歩き始めたのだが、その途中にベンチがある。誰もゐないそのベンチに腰掛けてみた。すると、空には白雲漠漠と浮かんで、鮮やかな新緑の中に降り注ぐ日差しも柔らかで、まことに気持ちが良かった。幸せといふものを感じた。家にゐると次から次とやることがあって、なかなかゆっくりできないものだが、外に出ればかへってゆっくりできることもあるものだと思った。

Engelbrektkyrkan の庭で

 

スウェーデンの NATO 加盟

2022-05-14 (土)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 14 日>(大安 丁卯 七赤金星) Halvard Halvar 第 19 週 第 26764 日

 

新聞に書かれた予定では、いよいよ明日、スウェーデン政府が NATO に加盟申し込みするかどうかを決めることになってゐる。僕自身のブログを振り返ると、3月10日には、Margareta Andersson 首相は NATO に加盟しない方針を明らかにしてゐた。ウクライナの攻防を巡ってこの2ヶ月の間に状況が変はって来たといふことか。フィンランドが先に加盟の申し込みをしたことも影響してゐると思ふ。また、政府が加盟申請しても、多分議会で承認されなければ加盟できないと思ふ。いづれにしてもこれまで中立国と思はれてきたスウェーデンNATO に加はることになれば、歴史の大きな転換点になる気がする。その吉凶を占ふことはできないが、ヨーロッパ情勢は緊張が高まる方向に向かふのではないだろうか。イギリスの Boris Johnson 首相から、あるいはドイツの Olaf Scholz 首相から「スウェーデンと共に戦ひますよ」と言はれても、所詮よその国はよその国だから、状況によって相手はどう変はるか分からない、くらいの覚悟は持ってないといけないと思ふ。スウェーデンの産業界は NATO への加盟を歓迎するかもしれないが、危ういものを含むような気がする。スウェーデンはこれまでも NATO と歩調を合はせて軍事演習などをして来たが、少なくとも表向きは中立国であった。そのことで世界から和平交渉の担い手として期待される一面もあったと思ふ。しかし、これからはそのような期待もされなくなると思ふ。

暑からず寒からず散歩にはちょうど良い気候である

 

平家物語「大臣流罪 5」

2022-05-13 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 13 日>(仏滅 丙寅 六白金星) Linnea Linn 第 19 週 第 26763 日

 

按察大納言資賢卿とその子息である右近衛少将_兼_讃岐守_源資時は、その官位を二つとも解かれた。また、次の3名のものも罷免された。参議皇太后宮大夫_兼_右兵衛督_藤原光能、大蔵卿右京大夫_兼_伊豫守_高階泰経、蔵人左少弁_兼_中宮權大進_藤原基親の3名である。「按察大納言資賢卿と、その子息の右近衛少将と、孫にあたる雅賢の3人についてはすぐに都を出よ」と、上卿藤大納言實國は、博士判官中原範貞に命じた。それで3人はその日のうちに都から追ひ出された。大納言は「三千世界は広いと言ってもこの5尺の身の置きどころもない。人生は短いと言っても今日の1日を暮らすのも困難なことだ」と言って、夜中に京都を出て雲の重なる遠方へ行かれた(原文では「九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へぞおもむかれける」)かの大江山やいく野の道にかかって、丹波国村雲(兵庫県多紀郡、現在は丹波篠山市)といふ所に隠れられた。それでも追っ手に尋ね出されてその後は信濃国に移られたといふことである。(小式部内侍は1025年没であるので、この大臣流罪の話は内侍の没後154年のことである。内侍が詠んで、百人一首にもある有名な歌 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立 を踏まえた表現になってゐる。藤原定家の生年は1162年であるので、この事件が起きたのは定家17歳の時か。小倉百人一首はまだ成立してゐない。平家物語が書かれた年代と小倉百人一首の成立とどちらが先であったかはわからない。もっと書くと、平清盛西行は若かった頃鳥羽院北面の武士として同級生であった。)

Nyköping 川岸の新緑

 

平家物語「大臣流罪 4」

2022-05-12 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 12 日>(先負 乙丑 五黄土星) Charlotta Lotta 第 19 週 第 26762 日

 

太政大臣藤原師長は、生涯のうちに二度も流されることになってしまったのだが、少しも苦情を言はなかった。といふのも、風雅を解するほどの人ならば、罪なくして配所の月をみることはむしろ望むところであったから。かの唐の太子賓客であった白楽天は、瀋陽の江のほとりに左遷された時、琵琶行などの詩を作ったといふではないか。そのいにしへを思ひやりながら、鳴海潟(海辺の歌枕、愛知県愛知郡にあり)、塩路はるかに遠見して、常は朗月を望み、浦風にうそぶき(詩歌を吟詠し)、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、なをさりがてらに(それほど本気でなく適当な気持ちで)月日を送られたことであった。ある時、当国第三の宮熱田明神に参詣された。その夜、神明法楽(神様を楽しませる)のために、琵琶をひき、朗詠なさったのだが、その辺りは当時は無智の境で芸術を解する人も居なかった。集まった里の老人、村の女、漁師、農夫たちは、かうべをうなだれ、耳をそばだてて聞くのだが、その人たちは音の清濁を区別するわけでもなく音階を知ってゐるわけでもない。けれども瓠巴(こは、楚の琴の名人)が琴を弾けば、魚が踊るほどであり、虞公(漢の唱歌の名人)が歌を発すると、遠くの梁塵が動くほどであった(この表現は孔子湯問篇などから引用)。ものの妙を極める時は、自然に感をもよほすものであるから、居合はせた人は皆、耳に聞いて震えるほどで、満座が奇異の思ひに満たされるのであった。ようやく深更に及んで、風香調(ふがうでう)の内には、花が芬馥(ふんぷく)の気を含み、流泉の曲の間には、月が清明の光をあらそふのであった。「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りをもって」といふ和漢朗詠集の詩を朗詠して、秘曲をおひきになると、神明感応に堪へずして、寳殿は大いに震動した。「もし平家の悪行が無かったなら、いま、私はこの瑞相をどうして拝むことができただろうか」と言って、師長は感涙を流すのであった。

Vitsippa をあちこちで見かける

 

平家物語「大臣流罪 3」

2022-05-11 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 11 日>(友引 甲子 四緑木星) Märta Märit 第 19 週 第 26761 日

 

太政大臣藤原師長は、官位を取り上げられて、東の方へ流された。かつて保元の乱では、父悪左おほい殿(藤原頼長)が罰せられた時、父子親族の縁にひかれて、ご自身も一緒に罰せられた。その時は兄弟4人が流罪になった。このうち御兄右大将兼長、御弟左の中将隆長、範長禅師の3人は帰洛を待たず、配所にて亡くなってしまったが、師長は土佐の幡多といふところで9年の春秋を送り迎へ、長寛2年(1164年)8月に召し返されて、元の官位に戻り、翌年には正二位に上がった。さらに仁安元年(1166年)10月には前中納言より權大納言に上がられた。この時大納言の地位に空きが無かったのだが、定員オーバーでも無理やり大納言になられた。大納言が6人になったのはこの時初めてである。また、前中納言より一足飛びに權大納言になることも例外的な扱ひであった。過去には後山階大臣三守公(南家藤原氏)、宇治大納言高國卿(源氏、高明の孫、俊賢の子)の2例があるものの、その他には聞いたことがない抜擢であった。とは言へ、師長は管弦の道に達し、才藝優れてゐらっしゃったので、次第の昇進滞らず、スイスイと太政大臣まで極められたのである。それがまた、今回重ねて流されておしまひになるとは、いかなる前世の罪の報ひなのであろうか。保元の昔には南海土佐へうつされたが、治承の今は東関尾張国にうつされるとかいふ話である。

道路脇にも春の花が咲く季節となった

 

平家物語「大臣流罪 2」

2022-05-10 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 10 日>(先勝 癸亥 三碧木星) Esbjörn Styrbjörn 第 19 週 第 26760 日

 

過去に大臣が流罪になった例を調べると、左大臣蘇我赤兄蘇我馬子の孫)、右大臣豊成(南家藤原)、左大臣魚名(藤原房前の子)、右大臣菅原(菅原道真)、左大臣高明公(醍醐天皇の皇子)、内大臣藤原伊周公に至るまで既に6人ある。しかしながら摂政関白が流罪になるのはこれが最初であると承る。故中殿の御子二位の中将基通は平清盛の娘婿であったので、後を受けて大臣関白になった。その昔、圓融天皇の御代のこと、天禄3年(972年)11月1日、一條摂政謙徳公(藤原伊尹)がお亡くなりになった。弟がふたりおありで、上の弟は堀河関白忠義公、下の弟は法興院の大入道殿と言はれた。この当時、下の弟は大納言の右大将であり、上の弟はまだ従二位中納言でいらっしゃった。つまり下の弟の方が上位であったが、この時に地位が再び逆転して、上の弟が内大臣正二位に上がって、内覧の宣旨が下された(天皇が裁可する文書などを先に見てよろしいといふ地位になった)。それは人の耳目を驚かすほどの大抜擢であったのだが、今回の場合はそれをも超過するほどの大昇進となった。何しろ、非参議二位の中将の身分から大中納言を経ずにいきなり大臣関白になったのであるから、こんなことは今まで聞いたこともない。普賢寺殿(藤原基通)のことである。上卿の宰相、大外記、大夫史にいたるまで、清盛の無茶なやり方に皆さじを投げるしかないように見受けられた。

我が家の庭のイチョウはまだ芽をふかないが、カエデには若葉がみられる。毎年不思議なのだが、最初は赤でしばらくすると緑の若葉になるのである