男系男子による皇位継承で良いのか?

太平洋戦争の戦後を生きてきた僕たちは、アジアの国々や洋上や内地で戦陣に死した多くの人たちに対して、折りに触れて申し訳ない気持ちを持つのだが、あの戦争では昭和天皇御自身も大変にお苦しみになった。日本が他国を侵略することなど決してあってはならないと、当初から周囲に強くお命じになりながら、天皇の権力を専横した軍部に翻弄されて、日本は泥沼化していった。それでも昭和20年8月15日に発表された終戦の詔のラジオ放送によってからうじて日本は救はれた。軍部の統帥権までお持ちになりながら、なぜその時に至るまでその権力を専横されてしまったのか、外国人にはわからないかもしれない。その構造の原因を辿れば明治維新に行き着く。徳川幕府を倒した薩長軍は新しい政府をどんなふうに展開すべきかについて全く自信がなかった。その自信がなかった分だけ天皇を持ち上げ、錦の御旗を考案し、その権威を借りて国を統治していった。そのやり方が功を奏したために、この安易に天皇の権威を借りる構造がやがては軍部が膨張する下地を作ったのだと思ふ。その意味では明治維新は決して一般に信じられてゐるほど成功したレボルーションではなかった。そしてそのことにいち早く気がついたのは西郷隆盛ただひとりではなかったかと思ふ。そのような歴史を持つ国の一国民としては、将来の天皇の皇位継承はどのようになされるべきかについて、無関心であってはいけないといふ気がする。僕は昭和天皇はもちろん、上皇さまも今上天皇も深く尊敬申し上げるけれども、あのやうに現代の天皇に相応しいご性格がひとりでに出来上がるとは到底思はれない。僕たちの目には見えないところで厳しいご養育がなされた結果に違ひないと思ふのだ。そしてそのご養育はご幼少の頃から長い時間をかけて積み重ねられたものであって、にはか仕込みでは決して達せられないものだ。その意味では、天皇の地位を継ぐべきお方は、男系とか女系とかいふお血筋の議論よりも、さらにはあの方は国民に人気があるからといふ理由によるのではなくて、将来にわたって、ご幼少よりしかるべきご養育を受けられたお方であってほしいと切に願ふ。男系男子による皇位継承を唱へる人たちの意見は、かつて天皇の権威を借りて権力を欲しいままにし、国を誤った方向へ導いたものどもの考へたことときはめて親和性が高い。そのことが僕はとても気になるのだ。

安易にAIを利用するとデータセンターでは大きな電力を消費してしまふらしいが、それでもAIに聞いてみると、この花は「宿根フロックス(オイランソウ)」といふらしい。毎夏我が家の裏庭に咲く。

 

夏の旅行を終へて

約1週間の夏の旅行を終へてスウェーデンの自宅に戻った。結果からいふととても印象に残る良い旅行であった。普段から娘たちと接することが少なかったが、この旅行では同じ時間を過ごすことができた。親近感といふものは日頃から互ひにむつみあふことで強くなるものだ。僕は日頃から、自分に対して「欲望を抑へて生きろ」とか、「人生は修行だ」とか、結構ネガティブなことばかり考へて暮らしてゐるのだが、たまに方針を変へてやってみると、存外自分では気のつかなかった生き方が見えてくることがあるものだ。その意味では今回の旅行ではただ「楽しかったね」とか「良い景色だったね」とかいふ感想だけではおさまらない充足感があったと思ふ。何かの応対をする時に、心の中ではイライラしながら、なるべくそれを表に出さずにやらうとするとどこかに無理がかかるものだ。だが、その無理なところをスッと解消してもらへるようなヒントを見たような気がする。同じ応対をするのに、我慢やストレスなしでこなせたらそんなに素晴らしいことはない。旅行してみることでこんな風に自分を変へられるものなら、たまに旅行してみるのはとても良いことだと思ふ。

2026夏 ロードス島 印象に残る旅行でした

 

ロードス島(第6日目)

(2026-07-13 月曜日)

 

ラフカディオ・ハーンのお母さんはギリシャ人であったから、ハーンはギリシャで生まれた。ネットで調べると、レフカダ島といふ島で生まれたのだといふ。ギリシャの本土に近い、西側のイオニア海に面した島である。ハーンは1850年生まれであるが、当時のレフカダ島はイギリス領であった。ハーンはジャーナリストなどをしながら世界を転々とし、来日したのは1890年である。その前年には帝国憲法が発布され、日本が近代国家として充実を見せ始めた頃で、この年に第1回帝国議会が開かれた。ハーンは小泉セツと結婚し、後に帰化して小泉八雲と名乗った。このお話は昨年であったかNHKの朝ドラで放送されたようであるが、僕は見てない。日本には理屈では説明のつかない不思議な物語がたくさんある。それらは一種の宗教的な下地になってゐると思ふのだが、それを宗教と呼ぶにはあまりに体系化されてなくて、十戒のような経典もなく、結局日本人は無宗教である、といふようなことになってしまふ。けれどもラフカディオ・ハーンには日本に脈々としてあるその雰囲気がよくわかった。霊的な体験といふものはおそらくどの国に行ってもあるのだと思ふが、霊的な働きかけに対していつも日本人は畏れと敬ひを持って接して来た、そのことがハーンにはよく分かったのだと思ふ。ギリシャ生まれのハーンに認めてもらへたといふその事実が、またひとつの霊的なメッセージになってゐるとも思ふ。そこに至るには大変な苦労がおありだったらうと思ふが、全く文化的背景が違ふ者同士であっても理解しうることがあると知るのは大きな励みだと思ふ。

暑さの中で咲く花

 

ロードス島(第5日目)

(2026-07-12 日曜日)

 

ロードス島は今はギリシャの領土であるが、ネットで調べてみるとさうなったのは第2次世界大戦後のことであるといふ。地図で見るとアナトリア半島に非常に近いので、かつてはオスマン帝国の一部であった。ところがその島を1912年にイタリアが占領した。1912年といふ年は日本では明治天皇の崩御、乃木大将と静子夫人の殉死、大正天皇の即位があった年である。また、この年にストックホルムオリンピックがあり、日本からは金栗四三選手がマラソンで出場した。オスマン帝国は1908年に立憲国家となったけれども、新政権は第1次世界大戦に参戦(1914年)して敗れ、以後オスマン帝国は消滅への一途を辿った。またイタリアは第2次世界大戦で敗れたので、それ以降にロードス島はギリシャの領土となったさうである。イタリア本土からロードス島に移り住んだイタリア人のほとんどは、島がギリシャ領になったときに本国へ引き揚げたさうである。ここではどさくさに紛れてソ連が侵略してくることはなかったから、日本人の満州からの引き揚げの時のような悲惨なことは多分なかったと思ふ。それでもこの島にはローマ・カトリック教会があるし、オスマン帝国時代の名残でイスラム教徒もゐるし、またユダヤ教徒もゐるさうである。このように宗教的には多様な構成であるけれども、なんといっても最も優勢な宗教はもちろんギリシャ正教会といふことである。もしイタリアによる支配が続いてゐたら別な様相を呈してゐたかもしれない。伝統のローマ・カトリックは11世紀に東西に分かれ、東側の教会がイスタンブールに起こり、ギリシャやロシアに広まったのが正教会である。日本では、東京・お茶の水にあるニコライ堂がその流れをくんでゐる。いづれにせよ、この島には多様な宗教がある。多様な宗教がお互ひを尊重しあって併存する地域には希望があると思ふ。以上、ホントは何も知らないのだが、ネットで調べたことを調べたままに書いた。が、AIも間違ふことがあるといふ。僕の解釈も間違ってゐるかもしれない。

毎日晴天に恵まれる。典型的な地中海性気候。この時期に雨が降ることは稀だといふ。

 

ロードス島(第4日目)

(2026-07-11 土曜日)

子供の頃には夏に海に行くのは大きな楽しみであった。泳ぎができないのに海に行きたいといふのも矛盾した話なのだが、小学6年生の時の臨海学級で2泊3日で杉津の海へ行った時のことを覚えてゐる。当時は北陸トンネルがなかったので、峠を越えるのに列車がトンネルをいくつも通過した。トンネルを抜けた瞬間に透き通るような藍色の日本海が見えて、見えたかと思ふとすぐにまたトンネルに入るのである。その繰り返しの光景がとても鮮烈で印象に残った。自分の住む町から海まではそんなに遠くもないのだが、当時はあまり交通機関もなくて、海は日常的な風景にはなかった。そんなこともあってか、文部省唱歌の「我は海の子」が好きであった。「高く鼻つく磯の香に」とあるように昔は浜辺に匂いがあった。海の水を舐めるとピリッといふ感じがあった。でも現代ではどこかヌメッとした感じがある。水に溶け込んだミクロプラスチックの影響だらうか。「我は海の子」は今ではその歌詞から想像できる風景を思ひ浮かべて楽しむだけであるのだが、それはやはり日本の海の風景だと思ふ。今、目の前に広がるエーゲ海を見ても、「我は海の子」のような感触は起きない。浜辺から海に入って少し泳いでみた。水を舐めてみてもやはりピリッといふ感じはしなかった。浜辺は裸足では歩けないほど熱かった。ゆったりと波が寄せたり返したりするのだが、海に入ってみるとそれは抗し難いほどの強い勢ひであった。いつものプールとは全然違ふ。やはり自然の勢ひはこはいものと思ふ。気弱な僕はとても沖に向かって泳ぐ気にはなれなかった。

夕暮れ時



ロードス島(第3日目)

(2026-07-10 金曜日)

ロードス島に来てやや困ったことはホテルのWiFiが不安定で、ほとんど利用できなかったことである。このために、ブログも更新できなかった。スウェーデンの自分の携帯電話は、ちょっと契約を変更すればEU区域内で利用できるようになるに違ひないのだが、そのような状況になることもなからうと思って詳しく調べず、変更もせずにおいたことが仇になった。でも、ネットに繋がらない生活をしてみることは別の意味で新たな体験であった。今はホテルのWiFiにつながるみたいだ。今これを書くのは、たまに繋がる瞬間があったので、更新してみた次第である。

見える山の岩肌は石灰岩であるのか、こんな感じが多い。

 

ロードス島(第2日目)

(2026-07-09 木曜日) ロードス島は南北に長い島で、その形は淡路島に似てなくもないが、面積は淡路島の2.3倍ある。ギリシャでは4番目に大きな島である。人口12万5千人といふことであるが、5月から10月の観光シーズンには多くの観光客が訪れて、この時期人口がうんと膨れ上がる。島の北東端にロードス市(ロドス市)があって、島の人口の約4割以上はそこに住んでゐる。四方を城壁で巡らされた旧市街もその一角にあるはず。そのあたりは長い歴史の中で要所であったことがなんとなくわかる。ヨーロッパの町は昔は城壁で囲まれなければ安心できなかったのだ。日本では京都が千年にわたって首都であったけれども城壁はなかった。朱雀大路の南の入口に羅生門があったに過ぎない。今のヨーロッパは場所によってはドローンや種々の飛翔体が飛んでくるから城壁では間に合はない。城壁は時代の遺物となってしまったが、観光資源として存在価値を誇ってゐる。ただ、僕たちは今回の旅行ではそのハートには行かずに、島の南東部 Lardos といふ地域の近くの海辺のホテルで、穏やかなエーゲ海を眺めながら数日を過ごすことにした。娘たちとは同じホテルの同じフロアに部屋を当てていただくことができた。部屋にはベランダがあって、庭にはプールがあって、その先に広がる海はエーゲ海だ。エーゲ海って中学生の頃から憧れであったのだが実際に見るのは初めてである。もし歴史といふものを勉強したなら、現実はそんなに甘いものではないことに気づくのだらうが、何も知らずにゐるのはむしろ幸せであるかもしれない。スウェーデンからこの島に来るとずいぶん南国にやってきたなといふ感じがするが、その同じ緯度をたどって日本地図でみると我が故郷の福井県の緯度とあまり変はらない。さて、ぼんやりと海を見て何日かを過ごせば、浩然の気を養へるであらうか。

この海の先にアナトリア半島があり、その北の黒海の対岸では戦争がある。南東にはイランもある。平和であることが申し訳ない。