平家物語 巻第五 「富士川 4」

2024-03-08 (金)(令和6年甲辰)<旧暦 1 月 28 日>(仏滅 辛未 五黄土星) Internationella kvinnodagen Siv Saga    第 10 週 第 27422 日

 

9月22日には高倉上皇(新院)はまた安芸国厳島へ御幸あった。3月にも御幸されてゐる。そのせいであらうか、数ヶ月はめでたく世がおさまって、民のわづらひもなかったのだが、その後高倉宮のご謀反があって天下も乱れ、世上も静かではなくなった。それで、世の中が静まる様にといふご祈念と、上皇のご病気平癒のご祈念とのために、また厳島へ御幸されたのである。今回は福原から出発されるので前回ほどの長旅にならず、幾分、楽でおありだった。高倉上皇はご自身で御願文を作成されて、摂政殿(藤原基通)が清書なさった。

 

(以下その御願文を訳してみたが、原文が難しくて僕にはよくわからない。変だと思ふがともかくも書いてみる)

 

聞き及ぶところでは、真如の光は明らかで満月が高く晴れた様であります。権現の智慧の深いことは陰陽の風が交互に吹く様です。厳島の社では仏名を唱へる声があまねく聞こえ、その効験はまたとなく尊いものです。高い峰が社殿をめぐってゐるのは仏の慈悲の高さを象徴し、大海が社殿のわきまで来てゐるのは仏の救ひの深く広いことをあらはしてゐます。自分は初め凡庸で愚かな身であったのに皇王の位を授かりました。今は老子の教へを学び、閑静な月日を仙洞で楽しんでをります。しかしひそかに真心を込めてこの厳島に詣で、その周囲にめぐらされた玉垣のもとに明恩を仰ぎました。ねんごろな思ひをこらし厳島の神から神託を受け、その神託は心に刻まれました。この夏秋の間が最も謹慎すべき時である様です。病気もなかなか良くならず月日が過ぎます。いよいよいま一度の参拝が必要であると感じ、志を深くして、ここに感応を乞ふために参りました。はて知らぬ寒い嵐の下で旅に寝て夢をやぶり、涼しくほの暗い秋の日の前で遠路に臨んで眼をきはめました。ついに神域に至って清浄の席を設け、書写してまいりました色紙墨字の妙法蓮華経一部、無量義経、普賢観経、阿弥陀経、般若心経各々一巻。自身の手で書写した金泥の提婆品一巻。うっそうとした松柏の陰に善根をまき、海潮の去来の響きは空に梵唄の声に和してゐます。仏弟子である私は宮城を出ること八日、前回の参詣から寒暑はそれほど経ってゐませんが、この間に西海の浪を二度までしのぐことになりました。ご縁の浅くないことを思ひます。厳島には朝に祈る人も何人かありますが、夕べに参詣する人は多くあります。ただし、身分の高貴な人がたくさん帰仰してゐると言っても、院の宮はこれまで参詣しませんでした。後白河法皇が初めて厳島に参詣の先例を作られました。中国の崇高山の月の前には漢の武帝もお参りしたことがなく、蓬莱洞といふ仙郷の雲の底に、天界の仙人が来た様子もありません。仰ぎ願はくは大明神、伏して一乗経を乞ひ、今度こそ私の真心からの祈りを照覧して奥深い感応をたれたまへ。

治承4年9月28日               太上天皇

 

と書かれてあった。

今日は Norrköping へ行った。