平家物語 巻第四 「還御 5」

2022-08-09 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 7 月 12 日>(赤口 甲午 六白金星) Roland 第 32 週 第 26851 日

 

高倉上皇厳島御幸からお帰りになって間もなく、治承4年(1180年)4月22日、新帝(安徳帝、今年3歳)がいよいよ御即位された。大極殿大内裏八省院の正殿で国の大礼が行はれる場所)で執り行ふことができれば良かったのだが、治承2年(1178年) の大火で内裏炎上し、まだ再建されてゐなかった。その様な場合には、太政官の庁で儀式をすることに定められてあったのだが、その時の九条殿(藤原兼実、前関白基房の弟)が言ふには「太政官の庁なんていふのは、臣下の家に例へれば公文所(今でいへば役場か公民館の感じか)の様なものだ。もし大極殿でできないなら、ご即位の式典は皇居の正殿である紫宸殿でこそ執り行ふべきだ」とのこと。それで、紫宸殿で御即位になった。「去る康保4年(967年) 11月1日、冷泉院の御即位が紫宸殿で行はれたが、あの時は天皇がご病気で、大極殿へ行くことがおできにならなかったので、止むを得ず紫宸殿で執り行はれたのだ。今回の場合はどうであらう。後三条の院の延久(1069年) に行はれた吉例にあやかって、太政官の庁で執り行ふのが筋であらう」と周囲からは批判の声が上がったのだが、九条殿のご意向であるので、その様な声は通らなかった。(この御即位の場所を間違へたことが、この先に訪れる運命に関係してゐたのだと、平家物語は因果応報を暗示してゐるやうに感じられる)。中宮は弘徽殿(清涼殿の北にあって中宮がお住まひになる所)より仁壽殿(紫宸殿の北にある御殿)へお移りになり、高御座(天皇玉座)へゐらっしゃったが、そのご様子は立派で美しくあられた。平家の人々はみな出仕されたのであるが、重盛の子息達は、去年重盛が亡くなった後であるので、喪に服し、籠居された。

我が家の庭に近頃咲いた花。