平家物語 巻第四 「還御 2」

2022-08-06 (土)(令和4年壬寅)<旧暦 7 月 9 日>(先負 辛卯 九紫火星) Alfons Inez 第 31 週 第 26848 日

 

治承4年(1180年)3月29日、高倉上皇は御船に乗って京へお帰りになる。ところが風が激しく吹いたので、御船を漕ぎ戻し、厳島のうちのありの浦といふ場所で待避されることになった。ここで上皇は「大明神の名残を惜しむためにここで歌を詠め」と仰せられた。すると隆房の少将

 たちかへる なごりもありの 浦なれば

 神もめぐみを かくるしら浪

夜半になると浪も静かになり、風も静まったので、御船を漕ぎいだし、その日は備後国しきなの泊(広島県沼隈郡口無泊と注記にあるが、今の福山市のあたりか)まで行かれた。この場所には応保の御代(1161 - 1163) 、後白河法皇御幸の際に國司・藤原為成が作ったといふ御所があって、清盛が今度の御幸の休憩所にといって準備しておいてくれたのだが、上皇はそちらには行かれなかった。「今日は卯月一日、衣更への日だね」と仰せになると、みんなは京の方を思ひやるのだった(この頃、旅行者は暦を携帯したのかな、曜日は無かったし。メモに過ぎた日数を記してただ数へたのかもしれない)。岸に目をやれば、色深い藤の花が松に映えて咲いてゐる。上皇はこれをご覧になると、隆季の大納言を呼んで、「あの花を取って参れ」と仰せになった。左史生・中原康定がはしけに乗って御前を漕いで過ぎ行くところであったので、その花を取りに行かせた。藤の花を手折り、松の枝につけながら持って参ったので、「気が利いてゐるではないか」と言って感心なされた。「この花にて歌あるべし」と仰せられると、隆季の大納言

 千歳へん 君がよはひに藤浪の

 松の枝にも かゝりぬるかな

今日は晴れた。葉の色も夏の盛りを過ぎにけり