平家物語 巻第四 「厳島御幸 3」

2022-07-21 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 6 月 23 日>(仏滅 乙亥 七赤金星) Johanna 第 29 週 第 26832 日

 

「幾ら何でも今回のご譲位は早過ぎやしないかい、新帝はまだ三つでゐらっしゃるのだよ」時の人々はこんな風に言ひあった。平大納言時忠卿は、新帝の乳母である帥の典侍の夫である。(本来は平宗盛の北の方が乳母になられる予定であったのだが、難産のためになくなっておしまひになったので、時忠卿の北の方が乳母になられたのであった。その様な説明が「公卿揃」のところで出て来た。帥の典侍は権中納言兼太宰権帥藤原顕時の女である。)時忠はその様な噂を打ち消す様に言ふのだった。「今度の譲位が早過ぎるだなんて誰にそんな非難ができるものか。異国を見れば、周の成王は3歳、晋の穆帝は2歳で即位された。我が朝では、近衛院3歳、六条院2歳で即位された。これらは皆、赤ちゃんを包む布にくるまれたままで、衣装や帯を正しくつけることはできなかったけれども、あるいは摂政が負ふて位につけ、あるいは母后が抱いて朝に臨んだりしたものであった。後漢の孝殤皇帝は生まれて100日で践祚された。天子が位をふむ先例は、和漢この様にあるのだ。」と言った。その時、故実に詳しい人たちは「とんでもないものの言ひ方だ。一体それは良い例だとでも思ってゐるのか」と呟きあふのであった。春宮が位におつきになったので、入道相国は夫婦ともに、外祖父・外祖母として准三后の宣旨を受けられた。つまり、大皇太后・皇太后・皇后に準じて年給を受けられる宣旨が下された。名目だけの官位であっても、位に付随する所得をその人のものとさせられたのである。また、禁中や院に伺候するものを召使ふことができた。衣服に絵を書いたり糸花をつけたりしたものを着た家人が出入りする様になり、まるで上皇か宮様の御所ではないかと間違へるほどの有様であった。清盛は12年も前に出家してゐるのだが、出家した後も栄耀栄華を極めることは変はりないものらしい。出家した人が准三后の宣旨を受けられた前例は法興院の大入道殿兼家公(藤原兼家)の場合がある。

スウェーデンの僕らの町でも30℃を超えた。プールまで行ってみたのだが広い駐車場は満車。これだけの混雑では感染する恐れもあると思って入館せずに帰ってしまった。