平家物語 巻第四 「鼬(いたち)の沙汰 2」

2022-09-06 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 8 月 11 日>(赤口 壬戌 五黄土星) Lilian Lilly 第 36 週 第 26873 日

 

ところで、清盛の三男である前右大将宗盛卿(亡くなった重盛の弟)は、後白河法皇をこんなに長く鳥羽殿に押し込め申し上げるのはあまりにも畏れ多いことですと切に申し上げるものだから、清盛はやうやくのことで思ひ直した。翌13日に法皇は鳥羽殿からお出になることができた。八条烏丸の美福門院御所へお移りになった。泰親が占った、三日のうちの御悦びとはこのことであったのである。

さうかうするところに、熊野別当湛増は、高倉の宮が御謀反を起こされたといふニュースを、飛脚で都に伝へて来た。前右大将宗盛卿はもうビックリで、落ち着きをなくし、その時、清盛は福原にゐたので、すぐにこのことを福原へ知らせた。清盛は直ちに都にやって来て、「良い悪いを考へてゐる時ではない。高倉の宮を絡め取って、土佐国の幡多(はた)へ流してしまへ」と命令するのであった。上卿(公事を執行する時の最高責任者)は三条大納言実房、職事(ことを取り扱ふ蔵人)は頭弁・光雅(藤原光頼の子)と決まった。源大夫判官兼綱、出羽判官光長の2名は命令を受けて、高倉の宮の御所へ向かった。この源大夫判官兼綱といふのは、実は三位入道・源頼政の次男である。それなのにその様なお役目の人数に数へられたといふことは、高倉の宮の御謀反を勧めたのが頼政であったことを、平家の人々はまだ知らなかったのである。

スウェーデンの秋は長い。その長い秋のいまは始まりである。