後白河院と清盛

2022-07-27 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 6 月 29 日>(仏滅 辛巳 一白水星) Marta 第 30 週 第 26838 日

 

鳥羽法皇崩御(1156年)の後、京の都では保元の乱が起きた。3年後には平治の乱が起きた。これらの乱れた世を平定するために清盛をはじめとする平氏の活躍は目覚しかった。しかし、朝廷をお護り申し上げたといふ自負から、平氏はおごり高ぶる様になった。後白河院はその様な平氏を次第に遠ざけたいとお考へになって、ついには平氏を倒す計画である鹿ケ谷の陰謀にまで加担なさる有様であった。後白河院の最愛のお后は建春門院で、平滋子と呼ばれるお方であったが、その姉上が、清盛の妻で、平時子二位の尼)と呼ばれるお方であった。その様な姻戚関係があるために、建春門院は清盛にとって後白河院との連絡の頼みとなるキーパーソンであった(この建春門院のお産みになった皇子が高倉天皇で、その高倉天皇中宮として清盛の娘・徳子が入内(1171年)し、安徳天皇をお産みになった。後の建礼門院である)。ただ、清盛にとってこの大事な義理の妹が安元2年(1176年)夏に急な病でお亡くなりになってしまった。それ以来、後白河院と清盛の関係は目に見えて悪化する。後白河院が鹿ケ谷の陰謀に加担されたのは建春門院が亡くなられた翌年(1177年)のことであった。清盛の長男重盛は皇室への忠信もあつく、後白河院も重盛を頼みにすることもおありであったのだが、この重盛も治承3年(1179年)に亡くなってしまふ。かうなるともう、後白河院と清盛の間の溝は深まる一方であった。清盛は後白河院を鳥羽殿に幽閉申し上げる挙に出た。さうした中で、さらにこの後、後白河院の第三皇子・以仁王が源氏の残党に平氏打倒を促すなどの事件(1180年)が続く。

今日も Stockholm へ行った。