平家物語「大臣流罪 5」

2022-05-13 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 13 日>(仏滅 丙寅 六白金星) Linnea Linn 第 19 週 第 26763 日

 

按察大納言資賢卿とその子息である右近衛少将_兼_讃岐守_源資時は、その官位を二つとも解かれた。また、次の3名のものも罷免された。参議皇太后宮大夫_兼_右兵衛督_藤原光能、大蔵卿右京大夫_兼_伊豫守_高階泰経、蔵人左少弁_兼_中宮權大進_藤原基親の3名である。「按察大納言資賢卿と、その子息の右近衛少将と、孫にあたる雅賢の3人についてはすぐに都を出よ」と、上卿藤大納言實國は、博士判官中原範貞に命じた。それで3人はその日のうちに都から追ひ出された。大納言は「三千世界は広いと言ってもこの5尺の身の置きどころもない。人生は短いと言っても今日の1日を暮らすのも困難なことだ」と言って、夜中に京都を出て雲の重なる遠方へ行かれた(原文では「九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へぞおもむかれける」)かの大江山やいく野の道にかかって、丹波国村雲(兵庫県多紀郡、現在は丹波篠山市)といふ所に隠れられた。それでも追っ手に尋ね出されてその後は信濃国に移られたといふことである。(小式部内侍は1025年没であるので、この大臣流罪の話は内侍の没後154年のことである。内侍が詠んで、百人一首にもある有名な歌 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立 を踏まえた表現になってゐる。藤原定家の生年は1162年であるので、この事件が起きたのは定家17歳の時か。小倉百人一首はまだ成立してゐない。平家物語が書かれた年代と小倉百人一首の成立とどちらが先であったかはわからない。もっと書くと、平清盛西行は若かった頃鳥羽院北面の武士として同級生であった。)

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