平家物語「大臣流罪 4」

2022-05-12 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 12 日>(先負 乙丑 五黄土星) Charlotta Lotta 第 19 週 第 26762 日

 

太政大臣藤原師長は、生涯のうちに二度も流されることになってしまったのだが、少しも苦情を言はなかった。といふのも、風雅を解するほどの人ならば、罪なくして配所の月をみることはむしろ望むところであったから。かの唐の太子賓客であった白楽天は、瀋陽の江のほとりに左遷された時、琵琶行などの詩を作ったといふではないか。そのいにしへを思ひやりながら、鳴海潟(海辺の歌枕、愛知県愛知郡にあり)、塩路はるかに遠見して、常は朗月を望み、浦風にうそぶき(詩歌を吟詠し)、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、なをさりがてらに(それほど本気でなく適当な気持ちで)月日を送られたことであった。ある時、当国第三の宮熱田明神に参詣された。その夜、神明法楽(神様を楽しませる)のために、琵琶をひき、朗詠なさったのだが、その辺りは当時は無智の境で芸術を解する人も居なかった。集まった里の老人、村の女、漁師、農夫たちは、かうべをうなだれ、耳をそばだてて聞くのだが、その人たちは音の清濁を区別するわけでもなく音階を知ってゐるわけでもない。けれども瓠巴(こは、楚の琴の名人)が琴を弾けば、魚が踊るほどであり、虞公(漢の唱歌の名人)が歌を発すると、遠くの梁塵が動くほどであった(この表現は孔子湯問篇などから引用)。ものの妙を極める時は、自然に感をもよほすものであるから、居合はせた人は皆、耳に聞いて震えるほどで、満座が奇異の思ひに満たされるのであった。ようやく深更に及んで、風香調(ふがうでう)の内には、花が芬馥(ふんぷく)の気を含み、流泉の曲の間には、月が清明の光をあらそふのであった。「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りをもって」といふ和漢朗詠集の詩を朗詠して、秘曲をおひきになると、神明感応に堪へずして、寳殿は大いに震動した。「もし平家の悪行が無かったなら、いま、私はこの瑞相をどうして拝むことができただろうか」と言って、師長は感涙を流すのであった。

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