平家物語「大臣流罪 3」

2022-05-11 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 11 日>(友引 甲子 四緑木星) Märta Märit 第 19 週 第 26761 日

 

太政大臣藤原師長は、官位を取り上げられて、東の方へ流された。かつて保元の乱では、父悪左おほい殿(藤原頼長)が罰せられた時、父子親族の縁にひかれて、ご自身も一緒に罰せられた。その時は兄弟4人が流罪になった。このうち御兄右大将兼長、御弟左の中将隆長、範長禅師の3人は帰洛を待たず、配所にて亡くなってしまったが、師長は土佐の幡多といふところで9年の春秋を送り迎へ、長寛2年(1164年)8月に召し返されて、元の官位に戻り、翌年には正二位に上がった。さらに仁安元年(1166年)10月には前中納言より權大納言に上がられた。この時大納言の地位に空きが無かったのだが、定員オーバーでも無理やり大納言になられた。大納言が6人になったのはこの時初めてである。また、前中納言より一足飛びに權大納言になることも例外的な扱ひであった。過去には後山階大臣三守公(南家藤原氏)、宇治大納言高國卿(源氏、高明の孫、俊賢の子)の2例があるものの、その他には聞いたことがない抜擢であった。とは言へ、師長は管弦の道に達し、才藝優れてゐらっしゃったので、次第の昇進滞らず、スイスイと太政大臣まで極められたのである。それがまた、今回重ねて流されておしまひになるとは、いかなる前世の罪の報ひなのであろうか。保元の昔には南海土佐へうつされたが、治承の今は東関尾張国にうつされるとかいふ話である。

道路脇にも春の花が咲く季節となった