平家物語「醫師問答 3」

2022-02-16 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 1 月 16 日>(仏滅 庚子 一白水星) Julia Julius 第 7 週 第 26677 日

 

熊野参詣から戻って何日も過ぎないうちに、小松のおとどは病気になられた。熊野の権現はすでに願ひを聞き入れてくださってゐることだからと言って、特に治療をなされなかった。また平癒の祈祷もされなかった。その頃、宋朝より優れた名医が日本を訪れて滞在してゐた。ちょうどその時、今で言へば神戸市兵庫区あたりの福原の地に清盛の別荘があって、清盛はそちらで仕事をしてゐた。側近の越中守盛俊を使者に立てて重盛に言った。「聞くところによると、病気がいよいよ重いさうではないか。今、宋朝より優れた名医が来てゐる。ちょうど良い幸ひだ。このお医者さんに見てもらふが良いぞ。」重盛は病床から助け起こされて、盛俊を前に話を始めた。「まづ医療のことはかしこまって承りました。」と申し上げねばなるまい。だが、あなたにも聞いて欲しいことがある。延喜の帝(醍醐天皇)はあれほど賢い天皇でゐらっしゃたが、異国の人相見を都のうちへお入れになってしまはれたのは、末代までも賢王のお誤り、本朝の恥とされてゐる。まして重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城へ入れれば国の恥になるであろう。漢の高祖は三尺の剣をひっさげて天下を治めたけれども、淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討った時、流れ矢にあたって傷を受けた。そのお后の呂太后は良医を迎へて見せたが、医師は「この傷は良くなるでせう。ただし、五十斤のお金を出せば治療しませう」と言ふのだった。高祖は言った。「我は天の守護を強く受けてゐた間は、多くの戦ひで傷を受けても痛みを感じなかった。だが運はすでに尽きた。命はすなはち天にあり。昔の周の名医であったと言はれる扁鵲(へんじゃく)がもしこの傷を見たとしても無益であろう。だがさう言って医者を退けるなら、それはやはり金銭を惜しむことと外見は似てゐる。」と言って、五十斤のお金を医者に与へながら治療を受けなかった。古人の言葉は私の耳に残り、今もって肝に銘じてゐる。重盛は、その任でもないのに九卿に列して高い位にのぼってゐる。その運命をはかるものは天心にある。どうしてその天心を察せずに、愚かにも医療などに労力を費やせようか。私の病気がもし定められた業の報いによるものならば、治療しても無益である。また、もし定められた業の報いでないならば、治療しなくても助かるであろう。インドの名医と言はれた耆婆(ぎば)の医術でも及ばなかったので、大覚世尊は抜提河(ばつだいが)のほとりで入滅された。これは定業の病は癒すことができないことを示してゐる。もし、医療の力で定業の病が治るものなら、どうしてお釈迦様が入滅することがあるだろう。定業の病は治療が不可能であることは明らかだ。治そうとするのは仏様のお体、治療の手を加へるのは耆婆である。しかるに、重盛の体は仏様のお体ではないし、名医といへども耆婆には及ばないであろう。たとひ中国の四医書を見てたくさんの治療を施すといへども、差別無常の世に存在する汚れた身を救ふことはできない。たとひ医書中の五経の説をつまびらかにしてあらゆる病気を直すと言っても、どうして先世の業病を治すことができるだろうか。もしそのような医術によって存命するなら、本朝の医道はないも同然だ。宋医の医術の効果がないなら面会しても仕方がない。本朝の重要な大臣の身で、外国から訪れた客に面会するのは、一方では国の恥であり、また一方では政道の衰へを示すものである。たとひ重盛のこの命は亡じても、どうして国の恥を思ふ心をないがしろにできようか。このことを父上に申し上げよ」と言ふのだった。

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町の広場から見た S:t Nicolai 教会