平家物語「小教訓3」

2020-12-11 (金)(令和2年庚子)<旧暦 10 月 27 日> (赤口 戊子 九紫火星) Daniel Daniela   第 50 週 第 26236 日

 

「さうは言っても、まさかお命を奪はれることにはなりますまい。たといその様な話が出たとしても、重盛がここにおります限りは体を張ってお防ぎ申し上げます」と言って出て行った。父の清盛の前に行くと、「あの成親卿のお命を奪ふことについてはどうぞよくよくお考へください。先祖修理大夫顯季が白河院に召しつかはれてからこれまでに、家にその例のない正二位の大納言にまであがって、今の君からはこの上ない御いとおしみをかけられてゐます。ここで首を刎ねられるのはどんなものでせうか。都の外にお出しになればそれで十分ではありませんか。北野天神、菅原道真藤原時平の讒言にあって恨みを西海の浪に流しました。また醍醐天皇の皇子であった左大臣源高明多田満仲の讒言で、山陽道を通り太宰府に流されました。これは皆、延喜の聖代である醍醐天皇、安和の御門である冷泉天皇の時代の間違った出来事だと申し伝へられてゐます。上古においてこの様な間違ひがあったのです。まして末代においてはなほのことです。賢王でも御あやまりがあるものです。まして臣下にはなほのことです。既に召しをかれてあるのですから、はやまったことをしなくても何の苦しいことがあるでせうか。「罪が疑はしい時は軽んじなさい。功が疑はしい時は重んじなさい」と言ひます。これは最近のことでありますが、この重盛はあの大納言成親殿の妹を妻にしてをります。また、息子の維盛も成親殿の娘を妻にしてをります。この様な親族関係があるから成親の助命を嘆願するのだろうとお思ひになるかもしれません。しかし、さうではないのです。世のため、朝廷のため、我が一族のためを思って申し上げてゐるのです。その昔、故少納言入道信西が権力を奮ってゐた時のことです。我朝には嵯峨天皇の時代に右兵衛督藤原仲成を誅せられて以来、保元までの二十五代にわたる君の治世の間には死刑が行はれませんでした。それが、信西の権力の時になって初めて死刑執行がありました。宇治の悪左府左大臣頼長の墓を暴いて死骸実検をしたことはあまりの政治であると思はれます。それで昔の人々は「死罪を行へば海内に謀反の輩が絶えない」と申し伝へて来ました。この言葉についてですが、中二年して、平治の時に今度は信西が土に埋まって隠れたゐたのを掘り起こされて、首を刎ねて大路をわたされました。保元の時に、自ら執り行ったことが、どれほどの時も過ぎないうちに、自分の身に報いとなって現れてしまったのです。何と恐ろしいことでせう。成親など大した朝敵ではありません。そのことも考へれば、どのみち、手荒いことをするとあとで問題が起こるでせう。父上の栄華は極まり、父上ご自身にはもうこれ以上のお望みはないでせうが、平家一門が子々孫々まで繁盛することこそ望むところではありませんか。父祖の善悪は必ず子孫に及ぶものです。「積善の家には必ず余慶があり、積悪の門には必ず余殃が止まる」と言ひます。どう見ても今宵首を刎ねることはおやめになるべきです」と言った。入道相國清盛は、重盛の言ふことはもっともだと思ったのでせう、死罪を思ひとどまりなさいました。

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Nyköping は今日も雨だった。やむのを待って散歩に出ようと思ってゐたら、いつの間にか暗くなってゐた。