平家物語「大塔建立 2」

2021-10-28 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 9 月 23 日> (先勝 己酉 三碧木星) Simon Simone 第 43 週 第 26556 日

 

そもそも、平家はどうして安芸の厳島を信じるようになったのかと云へば、次のような話がある。鳥羽院の御代に、その時は清盛公はまだ安芸守であったのだが、安芸国の予算で、高野山の根本大塔を修理しなさいと命令が下った。渡邊の遠藤六郎頼方を雑掌(国司庁の職員で文書を司るもの)につけられて、六年がかりで修理は終はった。清盛はその出来上がりを見ようと高野へのぼり、大塔を拝んでから、奥院の方へ行った。すると、老僧がどこからともなく現れた。眉には霜をたれ、額に深いシワをきざみ、先が鹿の角のように二股に分かれた杖をついてゐる。老僧はしばらく話をした。「昔より今に至るまで、この山は真言密宗を保って連綿として続いてゐる。天下にまたとない山である。大塔もすでに修理を終えたところだ。ところで、安芸の厳島神社と越前の気比神社とは両界の垂迹である。即ち、気比神社は金剛界大日如来が、厳島神社胎蔵界大日如来が、衆生を救ふために身を現したとされてゐる。ところが、気比神社の方は栄えたけれども、厳島神社はなきが如くに荒れ果ててをる。この高野の大塔を修理したついでに、天皇に申し上げて、厳島も改築されてはいかがかな。せめて修理だけでもするならば、汝は肩を並べる人もないほどの大きな官位昇進をするであろう。」さう言ひ残すと立ち去ってしまった。この老僧の居たところにたちまちに変はった香りが漂った。後をつけさせたのだが、三町ほど行くまでは見えたけれども、その後は姿をかき消すように消えてしまった。これはただのお人ではない。大師さまに違ひない。いよいよ尊いお方であることよ、と思はれた。この娑婆世界にお現れになった思ひ出に、高野の金堂に曼荼羅を描くことになった。金剛界曼荼羅(西曼荼羅)は常明法印といふ絵師が描いた。胎蔵界曼荼羅(東曼荼羅)は、清盛が自ら筆をとって描いた。この時清盛は何を思ったか、八葉の中尊、寶冠を、自分の首から血をとって、それで描いたと伝へられてゐる。

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我が家のイチョウのこの秋の最後の一葉。背景は我が家のモミジ。