瀬をはやみ

2021-08-20 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 7 月 13 日> (先勝 庚子 九紫火星) Bernhard Bernt 第 33 週 第 26487 日

 

平家物語の「赦文」を読んで、崇徳院といふお名前は鎮魂のために後の世に贈られた御追号であったことを知る。生きてをられた間にはご自分がそのような名で呼ばれることをご存知なかったのである。百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」がある。一応恋歌と言ふことになってゐるのだが、急流のほとばしる様子が、どこか身に迫り来る運命を暗示する響が感じられるようでもある。この歌が詠まれたのは保元の乱の前なのであろうか。崇徳院の父君は鳥羽天皇、母君は待賢門院であった。待賢門院は藤原璋子といふ名で幼少の頃から白河院の養女であった。白河院のお可愛がり方が普通でなかった。鳥羽天皇中宮となってから生まれた皇子の父は実は鳥羽帝の祖父、白河院であった。それで鳥羽天皇はその第一皇子に親しみをお感じにならなかった。その第一皇子が5歳になると、白河院鳥羽天皇を譲位させて、崇徳天皇を位につけられた。(この時、崇徳天皇といふお名前はまだなかったので、当時人々はどのようにお呼びしたのかしらと思ふ)。しかし、白河院が崩じられると、鳥羽上皇は自らが院政を取られた。そして新しいお妃、美福門院との間に生まれた皇子が3歳になられると、崇徳天皇を引き摺り下ろされて、3歳の皇子を天皇につけられた。これが近衛天皇である。崇徳天皇は新院と呼ばれるようになった。鳥羽院が崩じられると保元の乱が起きて、戦ひに敗れた新院は讃岐に流される。それで、それからは讃岐院と呼ばれるようになった。崇徳院と呼ばれるようになったのは高倉天皇の時代からであったことになる。

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