平家物語「教訓状 1」

2021-01-16 (土)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 4 日> (先負 甲子 一白水星) Hjalmar Helmer   第 2 週 第 26272 日

 

太政入道清盛は、これほどたくさんの人々を集結させても、まだ気が済まなかったとみえて、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧を身につけ、銀の金具で胸板がピタリとつくようにあて、小長刀を脇に抱へて、もう、中門の廊に出て来た。この小長刀といふのは先年、安藝守であった時に、新任の国司として初めて参拝した折に、霊夢を受けて、厳島の大明神より賜ったものである。その柄は銀で巻いて補強してある。いつもは枕元に立ててあったのを、今日は脇に抱へて、まるで出陣のいでたちで出てきたのである。その剣幕たるや何から何まで恐ろしかった。貞能が呼ばれた。筑後守貞能は木蘭地(黒味を帯びた黄赤)の直垂にひおどしの鎧を着て清盛の前にかしこまった。少しして清盛は話し始めた。「貞能、このことをどう思ふ。保元に平右馬助(平忠正。清盛の叔父。保元の乱で誅せられた)をはじめとして、一門は半ば過ぎて新院(崇徳上皇)のお味方についた。一宮(崇徳上皇の第一皇子重仁親王)の御事は、故刑部卿殿(平忠盛)の養君であられたので、どちらの関係から言ってもお見捨てすることなどできなかったのだが、我々は故院(鳥羽法皇)のご遺誡に任せて、後白河天皇のお味方をして先陣をつとめたのだ。これはひとつの奉公である。次に平治元年十二月、信頼・義朝が院内をとり奉って、大内にたてこもり、天下が暗闇になった時には、私は身を捨てて兇徒を追ひ落とし、はじめ謀反に与して後に寝返ってきた藤原經宗・藤原惟方を逮捕し処罰することに至るまで、後白河院の御為に命を失はうとすることは度々あった。たとい人が何と云はうとも、この一門は七代まではどうして捨てられたりされようものか。それなのに成親といふ無用のいたづらものや、西光といふ下賤の不届きものの申すことについておしまひになって、この一門を亡ぼさうとなさったのだ。法皇の御計画こそ遺恨のかぎりであるぞ。これから先も讒奏するものが現れれば、きっと当家追討の院宣をお下しになるものと思はねばなるまい。朝敵となってしまってはいかに後悔しても益はあるまい。私が世を静かにする間、法皇を鳥羽の北殿へお移し申し上げるか、さうでなければ、この西八条の邸宅へなりとも御幸いただくが良いと思ふがどうか。さうなれば法皇様をお守りする北面の輩は矢をこちらへ射てくることにもなろう。侍どもにその応戦の用意をせよと触れ回れ。この清盛は後白河院へのご奉公をもうほとんどやめることにしたぞ。馬に鞍を置かせよ。着せなが(鎧)を取り出せ。」と言った。

主馬判官盛國は急いで小松殿に走った。「大変なことになってます。」重盛はおしまひまで聞きもしないで、「ややッ、成親卿が首をはねられたか」と言へば、「いえ、さうではありませんが、入道殿が鎧をお着けになってます。侍どもは打ち立って、まさに法住寺殿へ寄せようとしてゐます。法皇を鳥羽殿へ押し込めまいらす様ですが、清盛公の内心では九州へお流し申さうと考へておいでです。」と言った。重盛はどうしてそんなことになるのかと思ったが、今朝の禅門の剣幕からすれば、その様なもの狂はしいことになることもあるかしれないと思って、急いで車で西八条へ向かった。

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白い教会