平家物語「法皇被流 1」

2022-06-09 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 5 月 11 日>(先負 癸巳 六白金星) Börje Birger  第 23 週 第 26790 日

 

治承3年 (1179年) 11月20日、院の御所法住寺殿は四面を軍兵で打ち囲まれた。清盛が差し向けた兵である。「平治の乱の時には、当時の院の御所であった三条殿を信頼が焼き払った。あの時と同じように今度は法住寺殿が焼き払はれて、中にゐる人は皆焼き殺されるであらう」といふ噂がたった。上下の女房たちや女の童たちは、取るものも取りあへず、あわてふためいて走って出た。後白河法皇ご自身も大いに驚かれた。前の右大将宗盛の卿(清盛の三男。重盛の異母弟)がお車を寄せて、法皇さまに「早くこちらにお乗りください」と申し上げると、法皇は「これは一体どうしたことだ。私が何か過失を犯したとでもいふのか。成親や俊寛のやうに遠い国、遙かの島へ移してしまはうといふ魂胆か。私は天皇があのやうにまだ幼いから政務に口出ししてゐるだけなのだ。それさへもいけないといふならこれからは控へることにしよう。」とおっしゃった。宗盛は「いや、さういふことではないのです。世を鎮めるために、しばらくの間、法皇様には鳥羽殿へお移りいただきたいと、父の清盛が申してをります。」と申し上げると、「それなら、お前がそのまま供をして参れ」と仰せになった。しかし、宗盛には決断がつかない。父の厳しい態度を思ひ浮かべると、恐ろしくなって法皇さまのお供につくことはできなかった。「ああ、この事ひとつをとっても、兄の重盛には格段に劣った器量であることよ。先年もかういふ目にあひさうになったが、重盛が身体を張って防いでくれたから、今日までも安心して来られたのだ。今や重盛は世をさり、諫めるものもゐなくなったので、清盛はこのような事をするのだらう。行く末は楽観できないことだ。」と言ってお涙をお流しになった。恐れ多いことである。

今日も外出は夕方の散歩のみであった。