平家物語「蘇武 1」

2021-08-02 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 6 月 24 日> (大安 壬午 九紫火星) Karin Kajsa    第 31 週 第 26469 日

 

鬼界ヶ島で流人となった康頼入道は望郷の思ひを込めて和歌を詠み、それを卒塔婆に記して流した。そのひとつが厳島に流れ着いたと言ふニュースはたちまち京中に広まった。あの清盛公さへもそれをあはれに思はれた上は、京中の上下、老いも若きも、皆、おおっぴらにこの流人の歌を口ずさんだ。千本もの卒塔婆を作ったのであるから、サイズは小さくもあったろうが、よくもまあ薩摩潟より京の都まで海路はるばる伝はったものよ。まことに不思議なことだ。何事につけ、あまりに思ひが強ければ、このようにしるしが現れるものなのだろうか。

昔、漢の国はモンゴル高原遊牧民族である匈奴に略奪されることが多かった。漢の武帝は李陵を大将軍にして30万騎で匈奴を征伐するように命じた。しかし、漢の軍勢は負けてしまった。その上、李陵は捕虜にされてしまった。漢は次に蘇武を大将軍に命じて50万騎で匈奴を攻めた。また負けた。6千余人の兵士が生け捕りにされた。その中から、大将軍蘇武をはじめとして630余人の主だった兵士は、ひとりひとり片足を切られて放たれた。すぐに死んでしまふ兵士もあり、少ししてから死ぬ兵士もあった。蘇武は生き残った。片足なき身となって、山に登っては木の実を拾ひ、春は澤の根芹をつみ、秋は田づらの落ち穂拾ひなどして、露の命をつなぐのだった。田んぼに来る雁は蘇武に見なれて逃げなかった。ああ、この雁たちはみな我が故郷へ通ふものなのだなあと思ふと懐かしさがこみ上げた。思ふことを一筆書いて、雁の翼に結びつけて放した。「十分注意して、これをきっと漢の王様に渡すのだよ」と言ひふくめた。頼もしい雁のことだ、秋は必ず越路(北国)より都へ来るものである。武帝の子である漢の昭帝が上林苑で園遊会を催した時のことである。夕ざれの空うすぐもり、何となくもの哀れな感じがする時であった。一つらの雁が飛び渡った。一羽の雁が群れから離れて急降下して、自分の翼に結びつけられた玉章を食ひ切って落とした。そこに居た人々がこれをとって帝に奉った。帝は自ら開いてお読みになった。「昔は岩窟の洞にこめられて、三春の愁嘆ををくり、今は広くて何もない田の畝に捨てられて、匈奴の一員にされてしまった。たとひこの身は胡の地にさらしても、魂は再び君にお仕へしたい。」と書かれてあった。それでこの文は雁書とも言ひ、雁札とも言ふ。

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雨が降ったり上がったり忙しい天気の日であった