平家物語「大納言死去 2」

2021-04-25 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 3 月 14 日> (仏滅 癸卯 一白水星) Markus   第 16 週 第 26370 日

 

備前国に流された新大納言・藤原成親は、平家の迫害が少しは緩やかになるかもしれないと思ってゐたのだが、子息・丹波少将成経が鬼界ヶ嶋へ流されたと聞いて、今となってはさうまで気を強く持って、何に期待ができるだろうかと弱気になってしまはれた。「私にはもう出家しかない」さう思って、小松殿に手紙を書いた。後白河法皇にお伺ひがたてられ、法皇からは出家のお許しが出た。それで成親はすぐに出家した。これまでは栄華の袂に身を包んでをられたのが、浮世を捨てて墨染の袖に身をやつされた。

大納言の北の方は、京都の北山雲林院の辺にひっそりと暮らしてをられた。罪人の身内でなくても、住みなれない土地に住むのは辛いのに、世をしのばなければならない身の上であるので、いっそう辛い毎日でおありだった。以前にはたくさんの女房や侍があったのに、その人たちは、あるいは世を恐れ、あるいは人の目が気になって、訪れる人もなかった。けれどもそんな中で、源左衛門尉信俊といふ侍だけは、情けが深い人であったので、日頃から北の方を御慰問申し上げてゐた。ある時北の方は信俊に言はれた。「夫は備前の児島にゐると聞いてゐたけれども、最新情報によると、どうも有木の別所とかいふところにゐらっしゃるらしい。なんとかして今一度、私からちょっとした手紙を差し上げて、夫の音信をもらひたいものです。」信俊は涙を抑へて申し上げた。「幼少より御憐れみをかけていただいて、片時もそのご恩を忘れてはをりません。成親卿がお流されになった時は、なんとかして私もお供させてくださいと頼みましたが、六波羅さまのお許しがいただけなかったので、力が及びませんでした。私をお呼びくださった時の御声も耳に残ってをり、お叱りをいただいた時のお言葉も心に刻み込まれてをります。片時も忘れてをりません。たといこの身はどうなろうと、お手紙をお預かりして彼の地へお届けいたします。」これを聞いて北の方は大いによろこび、早速手紙を書いて信俊にお渡しになった。幼いお子たちもそれぞれ御手紙を書かれた。

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若葉する木もチラホラ見かけるようになった