平家物語「大納言流罪 1」

2021-03-08 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 25 日> (先勝 乙卯 七赤金星) Internationella kvinnodagen Saga Siv  第 10 週 第 26323 日

 

安元3年(1177年)6月2日、新大納言成親卿は清盛の館で最後のもてなしを受けた。お食事を差し上げても胸が塞がって箸を持つこともされない。追捕のものたちに早く早くと急かされて、やむなく御車にお乗りになった。前後左右に囲まれて、成親卿のお味方はひとりも居ない。「今一度小松殿にお目にかかりたい」と言はれたが、それも叶はなかった。「たとい重い罪であったとしても、遠国へ流されるものに身の回りの世話をするものをひとりもつけないといふことがあるか」と車のうちでわめかれたが、守護の武士たちは皆、鎧の袖を濡らすばかりであった。御車は清盛の館を出ると西に進んだ。朱雀大路に出ると南へ向かった。ああ、この通りの北にある内裏もこれ限りだなと、よそながら最後のお別れを申し上げた。成親卿に年来親しみ申し上げてきた雑色牛飼のものたちは皆、涙を流し袖を絞った。まして都に残り止まる北の方、幼き人々の心のうちやいかにと推し測られてあはれであった。さらに南下して鳥羽殿の離宮を過ぎた時には、後白河法皇がこの御所へおいでになる時には一度だってそのお供からはづされたことはなかったものを、と嘆息された。ご自分の別荘の州浜殿が近所にあったが、それもよそながら見てお通りになった。鳥羽殿の南門まで来ると、舟がまだ来てなかった。武士どもは「舟はまだか」と催促した。「一体どこへ行かうといふのか。どうせ殺されるならば都に近いこの辺が良いぞ」と言はれたのは思ひつめてのお言葉であった。寄り添ふ様に近づいて来た武士があった。「誰か」とお尋ねになった。「難波次郎經遠と申します」。「この辺に我が方のものは居ないだろうか。もし居たら舟に乗る前に言ひ残したいことがある。尋ねて来させよ」と言はれた。その辺を走り回って探したけれども、大納言殿にお味方するものは一人もゐなかった。「世にときめいてゐた頃には、私に従ひつくものは千人も二千人もゐたものだ。今は流されて行くこの自分をたとえそれとなくでも見送ってくれるものがないのは悲しいことだ」とお嘆きになった。居合わせた強い武士たちも皆袖を濡らした。成親の身について行くものは、ただ尽きることのない涙ばかりであった。かつて熊野詣、天王寺詣などの折には、竜骨をふたつ入れて、屋形を三段に作った大型の舟に乗り、二、三十艘の舟を従へたものであったが、今は得体の知れない、とってつけた様な屋根に外幕をはったばかりの舟に乗せられ、見たこともない兵どもに囲まれて、けふをかぎりに都を出でて、波路はるかに赴かれる心のうちが推し測られてあはれである。その日は津の国の大物浦にお着きになった。

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空の青が美しい