平家物語「内裏炎上3」

2020-09-17 (木)(令和2年庚子)<旧暦 8 月 1 日> (友引 癸亥 四緑木星新月 Hildegard Magnhild   第 38 週 第 26151 日

 

同じ月の20日、花山院権中納言忠親卿が裁判官となって、遂に裁定が下った。國司加賀守師高はやめさせられて尾張井戸田へ流された。目代近藤判官師經は牢屋に入れられた。また去る13日に神輿に矢を放った6人も牢屋に入れられた。左衛門尉藤原正純、右衛門尉正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家國、左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、これらは皆平重盛の侍であった。

同年4月28日午後10時ごろ、樋口富小路から火が出て、東南の強い風に煽られて京中が焼けてしまった。大きな車輪の様な炎が、三町五町を隔てて西北の方へ斜交ひに飛び越え飛び越え焼けていく様子は恐ろしいといふ言葉では言ひ尽くせないほどであった。或いは具兵親王の千種殿、或いは北野天神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨田殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿をはじめとして、昔と今の名所30余箇所、公卿の家でさへも16箇所まで焼けてしまった。そのほか、殿上人、諸大夫の家々は書き留めることもできないほどである。遂には炎は大内裏にまで及んで、朱雀門、応天門、會昌門、大極殿、豊楽院、諸司八省、朝所など、一時のうちに灰燼に帰してしまった。家々の日記、代々の文書、七珍万宝が全部塵灰になってしまった。その被害額はどれほどになったことだろう。焼け死んだ人数百人、牛馬の類は数へきれない。これはただ事ではない。山王のお咎めとして、比叡山から大きな猿たちが二、三千おり降って、手に手に松火をともして京中を焼くといふ夢を見た人がある。

大極殿清和天皇の御宇であるが、貞観18年(876年)に初めて焼けた。それで貞観19年(877年)1月3日の陽成天皇の御即位は豊楽院で行はれた。再建工事は元慶元年(877年)4月9日に始まって元慶2年(878年)10月8日に完成した。後冷泉院の天喜5年(1057年)2月26日に大極殿はまた焼けた。再建工事は治暦4年(1068年)8月14日に始まったのだが、完成を見ないうちに後冷泉院は亡くなられた。後三条院の治世となったが、大極殿は延久4年(1072年)4月15日に完成した。文人は詩を奉り、伶人は楽を奏して、その新しい建物に後三条院をお迎へした。この様に昔は大極殿が焼けると再建したものだが、今は世も末になって、國の力も衰へたので、その後は遂に再建されてない。

 

ーーこの大火の描写は方丈記にも出て来ると岩波古典文学体系に書いてある。複数の古典に記述されてしまふほどの大火であった。この時代に生きた人々が感じた不安は、今の我々の不安と非常によく似てゐると思ふ。この民衆の苦しみの中から、やがて法然親鸞栄西道元日蓮らが現れたのだなと思ふ。

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来週はもう秋分