平家物語「内裏炎上2」

2020-09-16 (水)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 29 日> (大安 壬戌 五黄土星) Dag Daga   第 38 週 第 26150 日

 

同じ月の14日、山門の大衆がまた下洛して来ると噂が立った。夜中に高倉天皇は腰輿にめして、院御所法住寺殿へ移られた。中宮は牛車で行かれた。平重盛は直衣のままでその上に箭を負ってお伴した。重盛の長男維盛は束帯に平胡籙(「ひらやなぐい」といふ、矢を入れる器)を背負ってお伴した。関白殿をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人は我も我もと走って行った。京中の人たちは身分の高いものも低いものも皆騒ぎ立てて大変な有様であった。山門では、神輿に箭が立ち、神人宮仕が射殺され、衆徒の多くが傷を被ったのだから、大宮も二宮も講堂も中堂もひとつ残さず焼き払って、我々は山野に隠れようと、三千の衆徒が話し合った。これだけのことをすれば大衆の申すところを法皇様にわかっていただけるだろうと話し合ってゐるらしいことが伝はって来たので、比叡山の役僧の上席者たちは、詳しいことを衆徒たちに伝へに行こうとして、比叡山に登ろうとしたのだが、衆徒たちは大勢集まって、西坂本で役僧の上席者たちを追ひ返してしまった。役僧の上席者たちによる衆徒の鎮撫が失敗したので、今度は平大納言時忠が、その時はまだ左衛門督であったが、団体交渉の代表者となって比叡山に登った。大講堂の庭に三塔が集まって時忠をとって引っ張ろうとした。衆徒は「そいつの冠をうちおとせ。その身を縛って湖に沈めてしまへ」と騒ぎ立てた。今にも時忠に手がかかりさうになった時に時忠は「しばらく静かにしてください。皆さんに申すことがあります」と言って、懐から小硯と畳紙を取り出して、一筆書いて大衆に渡した。これを開いてみれば、「衆徒が悪いことをするのは魔縁の仕業である。帝がそれを制止するのは仏の加護である。」と書かれてあった。これを見て、衆徒が時忠を引っ張ることもなくなった。大衆は皆、もっとももっともと応じて、谷々を降り、僧坊へ入った。一紙一句をもって、三塔三千の憤りをやすめ、公私の恥を逃れた時忠卿は立派であった。人々も、山門の衆徒はうるさくおしかけるばかりが能かと思ってゐたが、案外、理屈もわきまへるのだなと、感心することであった。

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S:t Nicolai 教会の秋