平家物語「俊寛沙汰鵜川軍 2」

2020-08-01 (土)(令和2年庚子)<旧暦 6 月 12 日> (大安 丙子 六白金星) Per  第 31 週 第 26104 日

 

軍記物を読むと、若い男子は勇みたつ傾向がある。それで、先の戦争の後には、世の中の平和のために軍記物は読まない様にしようといふ気運があった。そのためか平家物語は戦後になって、戦前ほどには人々に読まれなくなったのではないかと思ふ。僕はその様な考へ方には同意できないが、そんな考へをする人も出てくるかもしれないと思はせる箇所もある。平家の攻防に直接の関係はないが、世の乱れる時には世の中全体に雰囲気が悪いのだと思ふ。加賀地方である事件が起きた。

 

その西光の子に師高といふものがあった。これも切れ者で、検非違使五位尉に経あがって、安元元年(1175)12月29日、追儺の除目に加賀守になった。権力を手にしたものだから、国務をとるにも非法非礼を容赦なくおこなった。神社仏寺、権門勢家の庄領を没収して取り潰し、したい放題のことをした。理想的な政治が行はれたと聞く周の召公の時からはるかに時代を隔ててゐるとは言っても、もう少し穏便な政治がなされるべきである。安元2年(1176)夏のころに国司師高は、弟の近藤判官師経を加賀の目代にした。師経は現地に着任すると、国府の役所の近くに鵜河といふ山寺を見つけた。そこでは寺僧どもが湯を沸かして入浴してゐた。そこへ乱入して追ひ出し、自分が湯浴みし、手下のものどもに馬を洗はせたりした。寺僧は怒って、「昔より、ここには國方のものが入ることはなかった。先例に従って早く出て行け」と言った。「これまでの目代はそんな意気地なしだったからこそバカにされたのだ。今度の目代は違ふぞ。ただ国法に従えへ」と言ふ。そこで喧嘩が始まった。寺僧どもは國方のものを追ひ出さうとするし、國方のものどもは隙を見て突っ込もうとする。小競り合ひをしてゐる間に、目代師経の秘蔵の馬の足が折られてしまった。それからは互ひに弓矢兵器を動員して喧嘩はエスカレートした。「これはかなはん」と思った目代は夜になって退いた。その後、国府に使はれてゐるものどもを集めて、一千余騎で鵜河におしよせて、坊舎を一宇も残さず焼き払った。鵜河は加賀国白山神社の末寺である。このことを訴へないわけにはいかない。老僧の智釋、学明、寳臺坊、正智、学音、土佐阿闍梨が進み出た。白山三社八院の大衆ことごとく集まってその勢ひは二千余人になった。7月9日の暮方に、目代師経の館近くに押せよせた。今日は日が暮れたので、いくさは明日にしようといふことになり、その日の攻撃はなかった。露ふき結ぶ秋風は、ゐむけの袖を翻し、雲井をてらすいなづまは、かぶとの星を輝かす。「これはかなはん」と思った目代はこっそり夜逃げして京に逃げ帰った。翌朝6時、ドッと時をつくって攻撃開始する。すると城のうちはすでにもぬけの殻であった。それならば今度は比叡山に訴へようといふことになった。白山中宮の神輿を賁り奉り、8月12日の正午近く、東坂本まで来た時、北國の方より雷おびただしゅう鳴って、都をさしてなりのぼる。白雪くだりて 地をうづみ、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりにけり。

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今日は夏らしい一日であった。