平家物語「西光被斬6」

2020-11-18 (水)(令和2年庚子)<旧暦 10 月 4 日> (先勝 乙丑 五黄土星) Lillemor Moa   第 47 週 第 26213 日

 

さうかうするうちに、謀反の一味は次々に捕らはれた。近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行などである。このことを聞きつけた西光法師は、我が身にも災難がふりかかると思ったのであろう、鞭をあげ、院の御所法住寺殿へ急いだ。平家の侍どもはその途中に追ひつき、「西八條でお呼びがかかってゐるのだ。すぐに参れ」と言った。西光は「院に申すべきことがあって法住寺殿へ参るのである。奏上がすんだらすぐに参ろう」と答へたのだが、侍どもは「えい、憎い坊主だ。今更何を奏すると言ふのだ。そんなことは言はせないぞ」と言って西光を馬よりとって引き落とし、宙にくくって西八條へさげて帰った。事件の発端からの中心人物であったから、ことのほか強く縛り上げて、中庭に引き据えた。入道相国清盛は広縁に立って、「この私を傾けようとするもののなれの果ての姿ぞ。そいつをここへ引き寄せよ」と言った。西光が縁のきはに引き寄せられると、清盛は履物を履いたままでその顔をむずむずと踏んだ。「もとよりお前の様な下臈のはてを、法皇様がお召しになり、やってはならない官職をお与へになり、父子共に身分不相応の振舞ひをすると思ってゐたが、そればかりでなく正真正銘の天台座主流罪にし、天下の大事を引き起こして、あろうことか、平家一門まで滅ぼさうと謀反をおこした奴だ。ありのままに白状せよ」と言った。西光は気も強く屈強の男であるので、顔色も変へず悪びれた様子もない。居直り、カラカラと大笑して言った。「何を言ふか。入道殿こそ過分の事を言ふではないか。他人の前ならいざ知らず、この西光の耳に入るところでは、その様なことは言はせないぞ。法皇様に召使はれる身であってみれば、別当成親卿の院宣として催されたことに味方しなかったとは申すまい。それはその通り味方をしたのだ。だが、耳障りなことを言ふではないか。御辺は故刑部卿忠盛の子でおありだが、十四、五までは出仕することもなかった。故中御門藤中納言家成卿の辺に出入りしてゐたのを、京わらべたちは高平太と呼んだものだ。崇徳天皇の時代、保延の頃に大将軍を承り、海賊の張本人三十人あまりを絡め取った恩賞として四位に叙せられたことでさへ、時の人々はこれは過分な恩賞だと言ひあったものだった。周囲の公家たちから殿上のまじはりを嫌はれた人の子で、太政大臣にまで成り上がったとは何といふ過分であろうか。衛士、滝口、北面などの階級の侍が、受領検非違使に抜擢されることは先例がないでもない。それなのに御辺だけはどうしてこの様な過分な恩賞に預かったのだろうか」とはばかるところもなく言ひ放ったものだから、入道は怒りのあまりものも言へなかった。しばらく経ってようやく「こいつの首を簡単に斬ってはならない。よくよく懲らしめよ」と言った。松浦太郎重俊承って、足手をはさみ、さまざまに痛めつけて問ひただした。もともと言ひ争ってまで自分の罪を否定しようとはしなかったが、その上に糾問は厳しかった。とうとう全部を白状し、四、五枚の紙に記せられた。「そいつの口を裂け」と声がかかり、口を裂かれ、五条西の朱雀で斬られた。嫡子前加賀守師高は尾張井戸田へ流されてゐたが、同じ国の住人小胡麻郡司維季に仰せがあって、斬首された。次男近藤判官師經は禁獄されてゐたが、獄より出されて六条河原で誅せられた。その弟左衛門尉師平、郎等三人、同じく首をはねられた。これらは、そのがらでもないものが頭角を現して、かかりあっていけないことにかかりあひ、正真正銘の天台座主流罪に陥れた。前世の良い報ひがあって、これまで身分不相応な出世ができたのかもしれないが、そんな果報もここに尽きたであろう。山王大師の神罰冥罰をたちどころに被って、西光の父子はこの様な目にあったのだった。

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葉を落とした木々のシルエットはそれなりに美しいと思ふ