平家物語「大納言流罪 2」

2021-03-16 (火)(令和3年辛丑)<旧暦 2 月 4 日> (大安 癸亥 六白金星) Herbert Gilbert  第 11 週 第 26331 日

 

新大納言成親卿は死一等を減じられ、流罪に処せられることになったが、これは重盛がさまざまに命乞ひをしたからなのである。成親卿がまだ中納言であった頃、美濃国を知行されてゐた。嘉応元年(1169年)の冬、目代右衛門尉正友のところへ山門の領、平野庄の神人がくずの繊維で織った布を売りに来た。目代は酒に酔ってゐて、その布に墨を付けた。神人は「何をするか」と怒ったが、目代は「文句あるか」とばかりに散々な暴行に及んだ。そのうちに神人は数百人の徒党を組んで目代のところへ乱入した。目代は掟に従ってこれを防いだが、神人ら十余人が打ち殺されてしまった。このことが原因になって、同じ年の11月3日に山門の大衆が一斉蜂起して、国司成親卿を流罪とし、目代右衛門尉正友を禁獄する様に朝廷へ訴へ出た。成親卿は備中国へ、いったんは流される様に決まったのだが、西の七条まで行った時に、君は何をお思ひになったといふものか、中五日過ぎると、都に召し返された。山門の大衆はカンカンになって呪詛したといふ事であるが、そんなことをよそに、嘉応2年1月5日、成親卿は右衛門督を兼務して検非違使別当になられた。その時に位は資賢・兼雅卿を超えられた。資賢卿は年長者であった。兼雅卿は華やかに栄えた人であった。本家の嫡子であるのに人に官職を追ひ越されたことが悔しい事であった。この昇進は成親卿が三条殿を増築したことへの褒美であった。ついで嘉応3年4月13日、成親卿は正二位に叙せられた。この時は中御門中納言宗家卿を超えられた。さらに抜擢は続いて安元元年(1175年)10月27日前中納言から権大納言に上がられた。人々は「山門の大衆には呪はれるお人であるのに何といふ出世であろうか」と話した。けれども今となっては、その大衆に呪詛されたからだろうか、この様に辛い目にあはれてゐる。因果応報は、神様からの罰であっても人の呪ひであっても、すぐに現れることもあるが、忘れたころに現れることもあるものだ。

f:id:sveski:20210317073318j:plain

まだ寒いが春の日差しを感じた。