平家物語「俊寛沙汰鵜川軍 1」

2020-07-31 (金)(令和2年庚子)<旧暦 6 月 11 日> (仏滅 乙亥 七赤金星) Helena Elin 第 31 週 第 26103 日

 

ノートへの写本は、平家物語俊寛沙汰鵜川軍」まで済んだので、自分なりのメモをブログに残す。荒々しい出来事が書かれてあったが、昔も今もつまらぬ人間のレベルは変はらない気がした。それは広く日本人の遺伝子に流れるものであり、気をつけねばならないと思った。

 

鹿谷の首謀者のひとり、法勝寺執行俊寛僧都とはどの様な人であったか。京極の源大納言雅俊の卿の孫で、木寺の法印覚雅の子であった。この祖父の大納言は武門の家ではないのだが、非常に怒りっぽい人で、三条坊門京極の家の前を通せんぼして、中門に立って歯を食ひしばってあたりを睥睨する人であった。こんな人の孫であるから、この俊寛僧都も、お坊さんとは言ひながら、気も荒く、傲慢で、つまらない計画に手を貸してしまったのだろう。

新大納言成親卿は、多田蔵人行綱をよんで、「あなたに大将になってもらひたい。平家討伐をうまくやり遂げたら、國でも荘園でも所望のままに進ぜよう。取り敢えず、これは弓を入れる袋にしてくれ」と言って、白布五十端を贈った。

安元3年(1177) 3月5日、妙音院殿(藤原師長)が太政大臣になった。小松殿(平重盛)は、大納言定房卿をこえて、内大臣になった。

北面は上古にはなかった。白河院の御時にはじめ置かれて以来、六衛府のものどもが多く伺候した。藤原為俊、藤原盛重は幼名を千手丸、今犬丸と言ったが、並ぶもののないきれ者であった。鳥羽院の御時にも藤原季教、藤原季頼父子は朝廷に召し使はれ、上皇の取次をすることもあったらしいが、それでもこの人たちは皆身の程をわきまへてゐた。ところが、この時代になると北面の者どもはもってのほかに分際をこえる様になった。公卿殿上人をものともせず、礼儀礼節もないありさまであった。下北面より上北面に上がり、上北面より殿上の交はりに許されるものもあった。この様なことが行はれる世の中になったので、武士たちにおごれる心も出て、つまらない謀叛にくみする様になったのだろうか。なかでも師光、成景といふものがあった。今はなき少納言信西入道に召し使はれてゐたものどもである。師光は阿波国国司に勤務のもの、成景は京のものであった。どちらも素性は卑しいものであった。雑務に従事してゐたが、りこう者であったので、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉として、ふたりが一度に衛門府尉になった。平治の乱信西が殺された時、このふたりは出家したが、左衛門入道西光、右衛門入道西敬となって、出家の後も院の御倉預かりをした。

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この猫は、会へばまっすぐに寄ってきて、愛想を振りまいてくれる。素直な猫である。