平家物語「頼豪 3」

2021-11-14 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 10 月 10 日> (先勝 丙寅 四緑木星) Fars dag Emil Emilia 第 45 週 第 26583 日

 

それからまもなく、承暦元年(1077年)8月6日、皇子は4歳でお亡くなりになってしまった。このお方が敦文(あつふみ)親王である。白河院はたいそうお嘆きになった。比叡山の座主で西の京に住んでゐた良眞大僧正、その頃は圓融房の僧都と言ってゐたが、この僧も祈祷の効験あらたかで知られてゐた。白河院はこの僧を内裏へお呼びになって、「どうしたものかの」とご相談になった。圓融房の僧都は「いつも我々の山の力でこそ、このような御願は成就するのでして、他の寺にやらせては駄目なのです。九条右大臣藤原師輔は、慈恵大僧正に契り申し上げられたことによってこそ、皇子すなはち後の冷泉天皇がお生まれになったではありませんか。ここは私どもにおまかせください。」と申し上げて、比叡山に帰り上った。山王大師に百日、肝胆を砕いて、新しい皇子のご誕生をお祈り申し上げた。すると中宮は百日のうちにまたご懐妊あって、承暦三年(1079年)7月9日に、御産平安、皇子がご誕生になった。これが後の堀河天皇である。昔から怨霊といふものは恐ろしいものである。今回は高倉天皇中宮に皇子ご誕生になって、大赦が行はれたのは良いことだけれども、俊寛僧都お一人にだけ赦免がなかったのは不可解なことであった。

生後まもない治承2年(1178)12月8日にこの皇子は東宮になられた。東宮補佐役は小松内大臣東宮職長官は池の中納言頼盛卿であったといふことである。

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