平家物語「御産 1」

2021-09-22 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 8 月 16 日> (大安 癸酉 三碧木星) Höstdagjämningen Maurits Moritz 第 38 週 第 26520 日

 

俊寛ひとりは置き去りにされたけれども、丹波少将と康頼入道の二人は鬼界ヶ島を後にして、平教盛の領地である肥前国鹿瀬庄に着いた。宰相である平教盛は、京から使ひを出して、「年内は波風が激しく、旅の途中も気がかりです。そこでよくよく静養をして、春になって暖かくなってから京に上りなさい。」と伝へた。それで少将は鹿瀬庄で年末を過ごすことになった。

その同じ年(治承2年(1178))11月12日午前4時頃から中宮に御産のきざしがみられるご様子となり、京中六波羅には人が集まって大騒ぎになった。御産所は六波羅池殿(清盛の弟頼盛の邸)であったが、後白河院もそこにゐらっしゃった。関白藤原基房をはじめとして、太政大臣藤原師長以下の公卿殿上人、世に人と数へられるほどの人、官位の昇進に望みをかけ、何かの官職を持ってゐる程度の人で来なかった人はひとりもなかった。先例によれば、女御后御産の時にのぞんで大赦が行はれることがあった。太治2年(1127)9月11日、待賢門院御産の時にも大赦があった(その時にお生まれになった皇子が後白河院である)。その例にならって、今度も重科の輩が多数許されたのであるが、その中に俊寛僧都ただひとり赦免がなかったのは可哀想なことであった。

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