平安時代の後期

2021-11-15 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 10 月 11 日> (友引 丁卯 三碧木星) Leopold 第 46 週 第 26584 日

 

平家物語は基本的には歴史文学であると思ふが、挟まれた数々のエピソードの中には、単なる伝説や虚構も散見される。敦文親王が頼豪の祈祷によって生まれ、また頼豪によって呪詛されたといふ話も、虚構であるとみなされてゐる。しかし、その話が史実であるかどうかといふことよりも、そのような伝説を育んだ国民性のようなものの方が大事かなと僕は思ふ。昨日書いた記事で、白河院堀河天皇が出てきたので、あの時代について少し復習したことを、忘れないうちに書く。白河院は、日本で最初に院政を始めた帝である。天皇の位を堀河天皇に譲られた時(応徳3年 1086年)、堀河天皇はまだ8歳であられた。退位して上皇となられた白河院は内裏を出て院の御所に移られる。すると、警護が必要になって、北面の武士が置かれた。堀河天皇は成人されるとご自分で政治を行ひたいと望まれたが、強い味方であった関白の藤原師通が亡くなってからは、その願望も次第に薄らぎ、それに応ずるように白河院は次第に政治の実権を強くお持ちになった。白河院はやがて治天の君と呼ばれるようになった。以後、堀河天皇は、和歌管弦の道を生き甲斐にされたが、1107年に29歳でお亡くなりになった。堀河天皇に仕へた讃岐典侍は、堀河天皇の思ひ出を「讃岐典侍日記」に書いて遺した。堀河天皇には皇子があったので、その皇子が鳥羽天皇となられた。白河院は藤原璋子を養女として近くに置いて可愛がられた。この女性が鳥羽天皇中宮となり、崇徳・後鳥羽両天皇の母となられた。待賢門院とも呼ばれる。白河院は 1129 年にお亡くなりになった。鳥羽天皇院政を引き継がれて鳥羽院となられた。鳥羽院の時代の北面の武士に、平清盛西行がゐて、この二人は同級生であった。武士の時代の始まりとなった保元の乱は、鳥羽院崩御の直後に起こった。その後に平治の乱が起こり、平家の繁栄が始まる。平清盛の娘徳子は高倉天皇中宮となり、めでたく皇子ご誕生あった。この時、打倒平家を目論んだ鹿ケ谷の陰謀の関係者たちにも大赦が行はれたが、ひとり俊寛僧都は許されずに鬼界ヶ島に残された。

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