平家物語「殿下乗合2」

2020-07-03 (金)(令和2年庚子)<旧暦 5 月 13 日> (大安 丁未 八白土星) Aurora 第 27 週 第 26075 日

 

1170年(嘉応2年)10月16日、重盛の次男資盛は13歳、その時の官位は越前守であった。昔は若くして官位につくことができたものだと思ふ。資盛は、若き侍ども30騎ばかり伴って鷹狩りに出かけた。場所は「蓮臺野や紫野、右近馬場にうち出でて」とあるから、地図を広げてみると、大徳寺北野天満宮かどこかその近辺ではないかと思ふ。雪ははだれに降って、枯野の風景の実に美しい一日であった。夕方になって帰途についた。六波羅へ向かふ途中で、大炊御門猪熊まで来た時、ばったりと藤原基房のお出ましにぶつかってしまった。と、ここでその交差点は今の地図で言へばどこだろうと調べてみた。今の京都御所は地下鉄が走る烏丸通の東にあるが、平安時代にはもっとずっと西にあった様である。恥づかしながら僕としては初めて知ったことなので、類推を交へて調べたことを書く。およそ平安京の中央には朱雀大路があり、その南端に羅城門、北上して大内裏の入口に朱雀門があった。現在の東寺の近くに「羅城門」といふバス停があるが、この辺に当時の羅城門があったのではないかと思ふ。朱雀大路は現在の千本通に近い場所の様である。朱雀門は今の千本丸太町の少し南あたりか。平安時代には二条城は無かった。二条大路の一筋北に大炊御門大路があり、内裏の郁芳門に繋がってゐた。摂政・藤原基房はまさにこの門から参内されようとしてゐた。お屋敷から東洞院を南へ、大炊御門を西へ出られたのである。大炊御門猪熊とは現在の地図でいへば堀川通夷川通の交差点に近いあたりではないかと推察する。ここでばったり行き合ったのである。摂政のお供の人々はその若造たちに「無礼である。馬から降りよ」と促したが、資盛の方は連れの侍たちも皆二十歳にも満たないものばかりで、礼儀作法をわきまへたものは一人もゐなかった。若造たちは構ふものかと、無遠慮に駆け破って通ろうとした。あたりはもう暗かったこともあり、相手が清盛入道の孫であるとも知らず、あるいは薄々知ってゐたのだが知らぬふりをして、資盛をはじめ侍どもを皆馬から引きずり落として散々に屈辱を与へた。資盛ははうはうの体で六波羅へ帰り、祖父の清盛入道にこんな目に会ひましたと訴へた。

f:id:sveski:20200704050213j:plain

近くの教会の前庭の花壇