平安時代にも「いぢめ」はあった

2020-05-11 (月)(令和2年庚子)<旧暦 4 月 19 日> (仏滅 甲寅 九紫火星) Märta Märit   第 20 週 第 26022 日

 

鳥羽上皇の勅願により、平忠盛は得長寿院を造進して、三十三間堂の御堂を建て一千一体の御仏をすへた(現在の七条の国立博物館近くの三十三間堂とは別のものと注にあった)。供養は天承元年(1131年)3月13日、忠盛36歳。鳥羽上皇はいたく感激し、忠盛に清涼殿への昇殿を許された。すると、雲の上人たちはこの新参者が気に入らない。何で田舎侍が俺たちの特権階級に割り込んで来るのかとばかりに、嫉んで陰湿な悪戯を企てる。この辺のことはあまりに有名な説話なので詳しく書くまでもないのだが、改めて気になったのは、この時代にもいぢめはあったといふ事である。それも子供の悪戯ではなく、都で最も高貴とされる人たちによる行為であった。人間は昔も今も同じことをするものだと思ふ。今の大人の職場や子供の学校にいぢめがあるのは900年前の貴族たちと変はらないのではないか。日本人にはその様ないぢめを好む血が流れてゐるのだ。「いぢめはやめよう」と表面的に声を掛け合ふよりも、その様な行為が人間として如何に醜いものかを、各人の持つ美意識に訴へる機会が用意されるべきではないかと、平家物語のこの部分を読んだ時、思った。物語にはさらに、自分がいぢめにあった時、どの様に対応すべきかについてのヒントも出て来る。

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