現地生活が長いのになぜ言葉ができないかーその2

2019-06-27 (木)(令和元年己亥)<旧暦 5 月 25 日>(大安 乙未 五黄土星)Selma Fingal 第 26週 第 25704 日

 

僕がスウェーデンに来た当初のもうひとつの課題は、ひとりある娘の教育をどうするかであった。娘はまだ小学校に上がらぬ前にこちらに来たが、仕事が上手く行かなければ日本へ帰って職を探さなければならない。さうなると、子供は自分の国に戻っても、学校の授業についていけないかもしれない。娘はこちらに来てしばらくは近くの förskolan に通った。半年ほどで小学1年生になった。通ふのは地元のごく普通の小学校であった。僕はなるべく残業をせずに定時で家に帰った。夕食後は、子供と一緒に日本語の勉強をする日々であった。いつ日本に帰ることになっても学校の授業についていける様にと思って、今から思ふと愚かしい判断であったが、文部省検定済教科書を使って四教科を教へたのである。Stockholm まで行けば日本人補習校が毎土曜日にあるのだが、苦しい家計からそこへ通はせるだけの費用を捻出することはできなかった。後年、高学年になってから、そこに通はせることもできる様になったが、低学年の間はもっぱら僕が家で教へた。不思議なもので、親がその様な覚悟でゐると危機感が伝はって、子供は子供なりに何故学校から帰ってまで日本語の勉強をしなければならないかをわきまへた。自分がスウェーデン語の勉強をするよりも喫緊の課題は娘が日本語の能力を身につけることであった。もしあの時、定年までも会社に居続けることができると分かってゐれば、方針は随分変はってゐただろうと思ふ。でも、当時はとてもそんな自信はなかった。親に自信がなかった分だけ、子に圧力がかかったことになるが、それはそれで仕方なかったと思ふ。言ひ訳がましいが、僕がいつまでもスウェーデン語の勉強に本腰を入れる気にならなかった第二の理由はこれであった。

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