「憲法」について思ふこと

2024-05-03 (金)(令和6年甲辰)<旧暦 3 月 25 日>(先負 丁卯 七赤金星)憲法記念日 John Jane    第 18 週 第 27474 日

 

「憲法」といふ言葉にはどこか近代的な響きがある。明治時代になって日本語としてたくさんの言葉が造られた。「自由」「平等」「文明」などたくさん造られたが、どうかすると「憲法」もそんな部類の新しい言葉ではないかと思ふ自分が居る。でも実際はこれは古い日本語である。聖徳太子の「十七条の憲法」は、過去1400年にわたってその様に呼ばれて来たと思ふ。それなのに語感として新しい印象を受けるのは、明治時代に西洋の constitution といふ言葉が「憲法」と訳されたことによるのではないかと思ふ。憲法は法律の親分の様なものだと思ふが、僕の希望を書けば、憲法とは、法律である以上に、理想や高い志を述べるものであって欲しい。僕らは現実の日常生活で理想とはかけ離れた生活をするが、「本当はかうあるべきだ」といふことが書かれてあるのが憲法であってほしい。もし憲法が「守らないなら処罰される」レベルの決まりであるとすれば、最低限の決まりしか決められない筈で、とても理想を述べる高みには達し得ない。「〇〇は違憲である」と主張する人の意見を聞くと、僕はどこか悲しくなる。人間は過つ生き物である。その過ちに対して本当はかうでなければならないのだよと教へてくれるのが憲法であって欲しいのだ。世の中の仕組みや状況が変はれば、それに応じて法律も新しくしなければならないことはあるだらう。けれども人が抱くべき理想といふものはどんなに時代が変はっても変はるものではない。「十七条の憲法」が今なほ人々に影響を与へ続けるのは第一条の「和をもって貴しとなす」といふ理想が万人に受け容れられるからではあるまいか。この理想は、ひとり日本といふ国だけに閉じこもった理想であってはいけない。世界中の国々の人々みんなに共有してもらはねばならない。「よその国のことは知りませんが、私らはちゃんとやってますよ」ではダメなのだと思ふ。

家から最寄りの桜も満開