Du Gamla Du Fria

2020-06-09 (火)(令和2年庚子)<旧暦閏 4 月 18 日> (先負 癸未 二黒土星) Börje Birger 第 24 週 第 26051 日

 

僕は歌が好きな方だが、外国語の歌は全く歌へない。日本語の歌は、歌詞のどの音韻も延ばせば母音を引くせいか、歌詞の音韻と音符との間に一対一の対応がつきやすい。最近の新しい音楽は難しくて、歌を聞いてもそれが日本語であることさへわからない歌もあるから一概には言へないけれども、基本的には日本の歌は誰でも歌ひやすくできてゐる。日本語は詩のために生まれた言葉だと思ふ所以である。ところが外国語になると、メロディーに合はせて歌詞を口ずさむのが難しい。仕事をしてゐた頃、日本に出張に行って、スウェーデン人たちとカラオケに行くこともあったが、英語やスウェーデン語の歌を知らないので苦労したものだった。あの雰囲気では演歌はちょっと歌へなかったし。でも、逆にいふと、その国の言葉でその国の詩をメロディーに乗せて口ずさめるなら、それは素晴らしいことではないかと思ふ。僕はかの有名なスウェーデン国歌 Du Gamla Du Fria さへもうまく歌へないのだ。娘が小学生の頃に屋外の卒業式などでこの歌をみんなで歌ふ場面がよくあった。見よう見まねで口だけ動かす努力をしたものだった。その歌詞の中に胸を突く一節があった。”Ja, jag vill leva jag vill dö i norden”. といふもので、直訳すれば、「この北欧に生き、そしてこの北欧に死にたい」くらいの意味だと思ふ。こちらにやってきた時は何年住むことになるか分からなかったから、「この北欧に死にたい」と言ふ覚悟が果たして自分にあるだろうかと、この箇所に来ると唇を動かすのを躊躇った記憶がある。「人間到る処青山あり」と口で言ふのは簡単だが、もし本当にさう思ったならその場面でも「この北欧に死にたい」とはっきりと言へたはずだ。すると、長男として生まれたものの自覚が働くからだろうか、故郷を思ふ気持ちは結局軽いのだね、といふ疑問ももたげてくるのだった。それから幾星霜を経て、今となってはコロナ騒ぎでなかなか日本に行くことができない状況になった。かうなってみると、もはやどこで死ぬかは運命に任せて良いのではないかと思ふことができる様になった。うんと練習すれば Du Gamla Du Fria だってうまく歌ふことができる様になるかもしれない。

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空の青は例年より綺麗なのかもしれない