現地生活が長いのになぜ言葉ができないかーその3

2019-06-28 (金)(令和元年己亥)<旧暦 5 月 26 日>(赤口 丙申 四緑木星)Leo 第 26週 第 25705 日

 

スウェーデンに来てこちらで生活してゐれば、そのうちに言葉はひとりでに覚えられるのではないか。そんな淡い期待が僕の心にはあった。勉強すれば誰だって上達するのだ、いっそ、全然勉強しないでどれだけわかる様になるものか試してみることも貴重な実験となるのではないか、と思ひ、長年にわたりほとんどスウェーデン語の勉強をしなかった。これがもし10歳にも満たない子ならそれでもある程度はいけたかもしれないが、僕の場合は全くダメであった。よく英語の教材に「聞き流すだけで英語が上達します」といふ触れ込みのものを見かけることがあるが、少なくとも僕の場合はその方法では絶対に上手くいかないと断言できる。どこか横着なまま楽をして身につく様なものはこの世には存在しないと知るべきではなかろうか。目にしろ耳にしろ、よほど感覚を研ぎ澄まさなければ外国語は脳の中で処理されないのだ。母国語ならば他のことをしながらでもラジオの言ってることが分かるし、雑音だらけの音声であっても補って聞くことができる。けれども、外国語の場合は、僕の場合、全神経を集中してもダメなのだ。この神経を集中させる苦痛に耐へられなくて僕はいつも言葉の勉強を放棄した。言葉といふものは最初は耳から入ってくるものなので、聴覚を無視した勉強法など成り立ち得ないのであるが、僕は耳が遠くなったこともあるし、耳から入る情報処理は全く弱い。そんな状況を少しでも改善できないかと、定年で会社生活をやめてから少し勉強する様になった。六日のあやめか十日の菊か、定年過ぎての外国語。最近 Duolingo にはまってゐるのはこの様な状況のもとにおいてである。

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町の中心部。Nyköping 川にかかる橋の上で。