寄らば大樹の陰

2019-05-10 (金)(令和元年己亥)<旧暦 4 月 6 日>(先負 丁未 二黒土星) Esbjörn Styrbjörn 第 19週 第 25656 日

 

日本語では短い言葉でたくさんの意味を表す場合がある。特に文語においてさうである。だが、現代語では冗長化した。例へば「寄らば大樹の陰」。現代の日常会話では「寄らば」などと言ふ人は居ないが、意味はわかる。’If you need to put yourself under something’ と言ふのに、「よ」「ら」「ば」と、三つのシラブルで言ってしまふのだ。「スゴイ!」と思って時々ひとりで感激する。現代日本語ではどう言ふだらう。「もし何かに寄って頼るなら」くらいになるだらうか。野暮ったい感じがする。この三つのシラブルの中に、主語や述語や仮定の意味が含まれてしまふ。いや、主語や述語は初めから省略されてゐるけれど状況でわかるのである。そこには、話し手も聞き手もわかりきった事は省くといふかっこよさがある。いちいち、you とか yourself とかの説明を必要としない。かういふ言葉になれてしまふと、「主語と述語は何か」と言ふ問ひかけを無意識のうちにやってしまふ。短い表現から、省略されてゐる事は何だらうと類推する回路が脳の中に出来上がる。それになれると、話しかけられもしない先から「相手は何を言ひたいのだらう」と類推する回路も出来上がってしまふ。日本人が今でも「忖度」が得意であるのは、日本人の特質と言ふよりは日本語で考へる習慣の中に隠れた原因があると思ふ。

 

 

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顔が白く、首の形、嘴、脚の色など、昨日の鳥とは違ふ。こちらはカモメで良いのかな。プールの前で撮影。