平家物語 巻第六 「小督 1」

2024-08-17 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 7 月 14 日>(友引 癸丑 五黄土星) Verner Valter  第 33 週 第 27580 日

 

高倉天皇は葵の前が亡くなられた後も、ずっと恋慕のもの思ひにしづんでゐらっしゃった。そのお悲しみを少しでもお慰め申し上げやうと、中宮に仕へる女房のひとりをおそばに参らせた。その人は桜町中納言成範卿の御娘で、小督殿と呼ばれた。宮中一の美人で、しかも琴の名手であられた。ところが実は前からこの女性を思ふ人があった。冷泉大納言隆房卿である。まだ少将であった頃にこの女房を見そめられた。積極的に近づかうとして、歌を詠んだり、お手紙を書いたり、思ひのたけを寄せるのだが、この女性はそれに応ずるそぶりを全く見せなかった。それでも、めげずに粘り強く言ひよってくるものだから、しまひには情にほだされて、心を寄せる様になられたのだった。ところが、今は君のおそばに仕へる身となってしまはれたので、どうしようもなく悲しい。名残の尽きない別れの涙で、悲嘆に沈むばかりであった。少将は何かの折りに小督殿を見かけることもあるかしれないと期待して、毎日参内された。小督殿が居られるはずの局のへん、御簾のあたりを、あっちへたたずみ、こっちへ立ち止まったりするのだった。小督殿は「君に召されてしまった以上、少将がどんなことを言ってきたとしても、言葉を交はしたりお手紙をやり取りすることは厳に慎まなければならない」と覚悟を決めておいでであった。人づてにさへ、情の言葉をおかけすることができない。少将はもしや返事がもらへないかなと、一首の歌を詠んで、小督殿が居られる御簾のうちへ投げ入れた。

 

思ひかね心は空にみちのくの千賀の塩釜近きかひなし

 

小督殿はすぐにお返事をしなければといったんは思ふのだが、君の御ため、後ろめたく思はれたのであらうか、手にとって見やうともなさらず、宮で使はれてゐる少女にそれをとらせて、中庭に放り投げさせられた。少将は情けなくなり、また恨めしくも思ったけれども、こんなところを人に見られては大変だと、空恐ろしくなって、それを取って懐に入れて退出した。なを立ち返って、

 

たまづさを今は手にだに取らじとやさこそ心に思ひ捨つとも

 

今はもうこの世であの女人にあひ見ることもできなくなってしまった。生きてものを思ふより、いっそ死にたいものだと願はれるのだった。

家の近所の教会。S:ta Katarina kyrka