平家物語 巻第四 「信連(のぶつら) 5」

2022-09-25 (日)(令和4年壬寅)<旧暦 8 月 30 日>(先勝 辛巳 四緑木星) Tryggve 第 38 週 第 26892 日

 

入道相国(平清盛)は御簾の中である。その息子である前右大将宗盛卿は大床に立って、庭にひっ据ゑられた信連に対して尋問を始めた。「まことにわ男(相手を卑しめる呼び方)は「宣旨とはなんぞ」と言って斬ったのか。検非違使庁の多くの役人を刃傷殺害したのだぞ。つまるところ、この男を問ひただし、ことの子細を詳しく聞いた後、河原に引き出いて首をはねてしまへ」と言った。信連は少しも騒がず、カラカラと笑って「この頃、夜な夜なあの御所を、何者かがのぞき見をしてゐたのですが、大したこともあるまいと思って用心もしませんでした。ところが鎧を身につけたものどもが討ち入って来たので、「何者だ」と問ふてみると、「宣旨のお使ひであるぞ」と言ふではありませんか。ともかくも山賊とか海賊とか強盗などど申すやつばらは、あるひは「公達の入らせ給ふぞ」と言ひ、あるひは「宣旨のお使ひ」と名乗るものであると、かねがね聞いてゐたものですから、「宣旨とはなんぞ」と言って斬ったまでです。だいたい武装を思ひ通りに身につけ、良い鉄の太刀を持ってゐたなら、きっと役人たちをひとり残らず無事では帰さなかったことでせう。また、宮の御在所はどこであるか、存じてをりません。たとひ知ってゐたとしても、高倉の宮の家来であらうものが、言ふまいと決心したことを、問ひただされたからとて、言へるものですか。」とだけ言ふと、その後は一言も話さなかった。いくらも並ゐたる平家の侍どもは「あっぱれ剛の者かな。惜しい男なのにそれを切り殺してしまはれるとはもったいないことだ」と言ひあった。その中にゐたある人は、「あやつは先年、武者どころにゐた時も手柄を立てたのだ。強盗が6人入って来て、大番衆は捕まへられなかったのだが、あの男はただひとりでおっ掛かって、4人を斬り伏せ、2人を生け捕りにした。その時の功労で左兵衛尉に任じられたのだ。この男こそ一人当千のつはものと言ふべきだ。」人々は口々に惜しみあったので、清盛はどう思ったか、死罪を免じて、伯耆国の日野(現在の鳥取県日野郡日野町根雨)へ流すことになった。

さらに、後日談があって、源氏の世になってからは東国へ下り、梶原平三景時について、ことの次第を順番に詳しく申し上げたところ、鎌倉殿(源頼朝)は神妙なりと感じ入って、能登国の地頭職に補せられたとのことである。

Stockholm 市内の街並みで蔦の絡まる建物を見た