平家物語「僧都死去 1」

2022-01-13 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 12 月 11 日>(仏滅 丙寅 三碧木星) Tjugondedag jul Knut 第 2 週 第 26643 日

 

「有王が尋ねて来てくれたのは夢ではなかった」そのことを俊寛僧都は今はハッキリと分かった。「有王よ、去年、丹波少将や判官入道の迎へが来た時にも、私の家族からの手紙はなかったぞ。今、汝が来ることになっても何とも言はなかったのか。」有王は涙にむせび、うつぶして、しばらくは何も言へなかった。しばらくしてやっと起き上がり、涙を抑へながら説明を始めた。「あなた様が清盛様の西八条に出頭なさった後、すぐに追捕の役人が来て、身内の人々をからめ取り、御謀反の次第を尋ねて、殺してしまひました。北の方は幼い人を隠す場所もないので、鞍馬の奥にしのばせられました。この有王だけが時々鞍馬まで参ってお仕へいたしました。どなた様もお歎きは一通りではなかったのですが、幼き人はあまりに父上を恋しがられて、私が参りますたびに「有王よ、鬼界の島とかやへ我を連れて行ってくれ」とせびられました。ところが二月になると、疱瘡にかかってお亡くなりになってしまひました。北の方は、お子様をなくしたお歎きと申し、あなた様の御流罪のことと申し、ひとかたならぬ御思ひにお沈みになって、日に日に弱っていかれました。そして三月二日に遂にお亡くなりになってしまったのです。姫御前だけが残られて、奈良の姑御前の御許に御渡りになりました。その姫御前のお便りをここに預かって参りました。」と言って手紙を取り出してお渡しした。僧都がそれを開けて見ると、今、有王が申した通りのことが書かれてあった。手紙の終りには「三人流されたる人の、二人は召し返されたといふのに、何故今まで都にお上りにならなかったのですか。あはれ、身分の高いものも低いものも、女の身ばかり情けないものはありません。もし男の子の身であるならば、お父上のおいでになる島へ参らずにおくものですか。この有王をお供にして、急いで都に上ってください。」と書かれてあった。「これ見よ、有王、この子の、何といふ幼稚な手紙の書き方であろう。お前をお供にして急ぎのぼれと書いてあるぞ。何と悲しいことだろう。自分の思ひ通りになる身の上ならば、どうして三年の春秋をここに過ごしたりしようぞ。娘は今年十二歳にもなると思ふが、これほど幼稚であっては、人の妻になることも、宮仕へすることも、自分の身を助けることもできはしまい」と言って泣いた。藤原兼輔は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」と詠んだが、その歌のように俊寛もまた、子を思ふ道に迷ふほどが察しられることである。

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今日は冬の夕焼けが見えた。