持統天皇

2023-10-18 (水)(令和5年癸卯)<旧暦 9 月 4 日>(赤口 己酉 三碧木星)Lukas   第 42 週 第 27280 日

 

第41代持統天皇は歴代天皇の中でも偉大な天皇であったと思ふ。古代日本が律令国家として出発する時代を背負はれた。だが、自ら天皇の地位を望まれたのかどうかわからない。持統天皇は皇女の時代には鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれた。姉に大田皇女、弟に健皇子があり、この三姉弟の父が中大兄皇子天智天皇)で母は遠智娘(おちのいらつめ)であった。大田皇女と鸕野讚良皇女の姉妹は二人とも、叔父である大海人皇子天武天皇)のお妃になった。大海人皇子には他にも夫人が何人かあった。額田王、尼子娘、カジ媛娘、、、。額田王との間には十市皇女、尼子娘との間には高市皇子、カジ媛娘との間に忍壁皇子があった。また大田皇女との間には大伯皇女、大津皇子があったが大田皇女は早くに亡くなられた。鸕野讚良皇女には草壁皇子があった。

天智天皇は次期天皇を誰にするかについてお悩みであった。皇子である大友皇子か、弟である大海人皇子か。大海人皇子は身を引いて吉野にこもられた。けれども672年に天智天皇崩御の後は、結局は皇位をめぐって大友皇子と争ひになった。これが壬申の乱である。この戦ひに勝利した大海人皇子は翌年都を近江大津宮から飛鳥浄御原宮に遷してそこで天武天皇として即位された。この時鸕野讚良皇女は皇后に立てられた。皇后は次期皇位草壁皇子に繋ぎたいと思はれたが、親心から何があっても我が子に帝位を継がせたいと望まれたのか、それよりもむしろ自ら政治を動かしたいお気持ちが強くて、それには我が子が天皇であってくれた方がやりやすいと思はれたかはわからない。686年天武天皇崩御になると、大津皇子に謀反ありと噂が立って、大津皇子は自害に追ひ込まれた。これで草壁皇子皇位継承は確定したかに見えたが、689年に病死された。皇后のお嘆きは深かったと思ふ。孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)はまだ幼く、当時7歳であったので、鸕野讚良は自ら天皇に即位することを決心し、持統天皇となられた。

ところで、この鸕野讚良皇女の母である遠智娘は蘇我家の出で、その父は蘇我倉山田石川麻呂である。蘇我入鹿を暗殺する現場となる大極殿で、朝鮮の使者からの上表文を読み上げる時が実行のタイミングであったが、その役割を果たす時、声が震えて入鹿に不審に思はれたといふ話もある。実直温厚で人望もあったらしいが、それ故にか後に中大兄皇子から反逆の疑ひをかけられて、山田寺で自害して果てた。遠智娘にしてみれば、愛する父を愛する夫が殺害したことになり、そのあまりの衝撃の大きさから気が狂ひ、健皇子を産むと間もなく亡くなった。平家物語・朝敵揃では蘇我倉山田石川麻呂は悪人のひとりである様に書かれてある。朝敵ではあったのかもしれないが、悪人ではなかったと思ふ。今日のブログは主に里中満智子の「天上の虹(持統天皇物語)」をもとに書いた。自分のおぼろげであやふやな知識を整理するつもりで書いてみた。山田寺跡へは友達の案内で2019年3月に行ったことがあり、ブログにも書いたことがある。

白樺の葉も黄色くなった