天智天皇

2023-10-19 (木)(令和5年癸卯)<旧暦 9 月 5 日>(先勝 庚戌 二黒土星)Tore Tor   第 42 週 第 27281 日

 

持統天皇の父は中大兄皇子天智天皇)であるが、里中満智子の「天上の虹(持統天皇物語)」では、相当に強い性格のお方であった様に書かれてある。なにしろ中臣鎌足と組んで蘇我入鹿を倒したのであるから、強い皇子であったには違ひない。当時蘇我家天皇家を凌ぐほどの権力を持ち始めてゐたので、もしも中大兄皇子がおとなしい性格の皇子であられたなら、あるいは入鹿の父蘇我蝦夷が息子を暗殺された後で戦意を鼓舞してゐたなら、日本の歴史はどうなってゐたかなと思ふ。この時、蘇我蝦夷は自宅に火を放ち自害して果てたといふ。この大事件が起きた時の天皇皇極天皇であった。衝撃を受けられた皇極天皇は退位されて、中大兄皇子に位を譲らうとされたが、中臣鎌足はそのことに反対した。中大兄皇子大海人皇子舒明天皇皇極天皇の間の皇子であるが、皇極天皇の弟に位を譲られることになった(孝徳天皇)。また、舒明天皇の別のお妃から生まれた古人皇子は身の安全のために出家して吉野に去られたのであるが、後年謀反の疑ひをかけられて処刑された。孝徳天皇は有馬皇子がおありだったが、その皇子を残して654年に亡くなられた。有間皇子は狂気を装ふ様に社会から離れておいでであったので、中大兄皇子は母に再度天皇になってもらふ(前の皇極天皇重祚して斉明天皇となる)。その有間皇子も658年結局は処刑された。この様に中大兄皇子は常に実権を握りながらも、天皇の位にすぐにはつかれぬままに長い年月が流れた。この間に日本の国家の建設のために尽くされた。661年に斉明天皇崩御の後は事実上の天皇になられたが、正式に即位されたのではなかった。663年白村江の戦ひで、唐・新羅連合軍に敗れるなどの出来事もあったが、その後ついに668年に近江大津宮で正式に即位し、天智天皇になられた。大化の改新から実に23年。壬申の乱まであと4年といふ年である。中臣鎌足はその翌年に藤原氏の姓を賜って死ぬ。天皇は位としてはトップであるが、実権のトップは別にあるといふ日本のやや屈折した権力の構造はこの時代にその萌芽があった様にも感じられる。今日のブログも里中満智子の「天上の虹(持統天皇物語)」を見て書いた。

気温は4℃ほどであった。