平家物語 巻第四 「鵼 2」

2023-05-11 (木)(令和5年癸卯)<旧暦 3 月 22 日>(赤口 己巳 九紫火星) Märta Märit  第 19 週 第 27120 日

 

ところで、源三位入道頼政の生涯の手柄と云へば、鵼を退治したことであらうか。三十年近く前の仁平の御代の話だが、近衛院御在位の時、主上は夜な夜な怯えて気絶なさることがあった。有験の高僧貴僧に命じて、魔を追ひ払ふやうに、大法秘法を修せられたのだが、一向に効き目がなかった。御脳はきまって丑の刻(午前二時ごろ)におこる。この時刻になると、東三条の森の方より黒雲ひとむら立ち来て御殿の上を覆ふ。すると主上は必ず怯えられるのであった。公卿たちは集まって対策会議を開いた。六十年ほど前の寛治の御代、つまり堀河天皇御在位の時にも、今と同じ様に主上が夜な夜な怯えられることがあった。その時、後三年の役で東北地方の豪族の争ひをおさめた源義家が将軍になってゐた。義家は紫宸殿の広縁である南殿の大床に待機したが、御脳の刻限に及んで、魔を払ふために弓の弦をビュンビュンと三度鳴らした。それから高い声で「前陸奥源義家」と名乗りをあげられた。すると人々は皆、身の毛もよだつほどの緊張を覚えて、主上のご病気はいっぺんに治られた。

 

(物語とは関係ないが少し追記する。源義家は「前陸奥源義家」と名乗りをあげた。ここで、前(さきの)といふ文字があるのは、せっかく後三年の役で手柄を立てたのに、都に戻れば陸奥守を解任されてしまったのだ。朝廷は、陸奥国の争ひはそもそもが清原氏の身内の争ひであったのに、義家が勝手に首を突っ込んだだけだと言って、義家には何の恩賞もなかった。戦ひに参じた東国の武士たちには自分の財産を分けて褒美を与へたので、義家の人気は東国武士の間で高まり、これがやがては源氏の勢力の底流となっていくといふ話を聞いたことがある。

また、堀河天皇白河法皇の皇子であったが、政治の権力は法皇がお持ちであったので、政治からは離れておいでであった。その日々のご様子は「讃岐典侍日記」に詳しいと聞く。29歳でこの世を去られた。堀河天皇の次はその皇子である鳥羽天皇の御代になったが、祖父である白河法皇院政は続いた。鳥羽天皇白河法皇崩御の後に、自らも院政を引き継がれ、鳥羽上皇となり、崇徳天皇を立てられた。その後、鳥羽上皇は美福門院との間にできた皇子が三歳になると近衛天皇として立てられて、この時崇徳天皇は譲位させられ、新院と呼ばれた。鳥羽上皇崇徳天皇が我が子ではなく、祖父の白河法皇の子であるといふ噂を信じて、崇徳天皇に冷たかった。やがて近衛天皇は17歳で崩御、次の天皇鳥羽法皇の別の皇子である雅仁親王と決まった。この方が後白河天皇である。崇徳院のご不満がくすぶり、皇室内の不和を公卿たちが担ぎ上げて緊張し、その一年後に鳥羽法皇崩御になると直ちに保元の乱が起きた。近衛天皇の御代の、頼政による鵼退治が仁平3年(1153年)の夏であったとすれば、その時、近衛天皇は15歳、頼政は49歳であったことになる。)

散歩道の夕暮れ