平家物語 巻第四 「通乗之沙汰 2」

2023-04-25 (火)(令和5年癸卯)<旧暦 3 月 6 日>(友引 癸丑 二黒土星) Markus  第 17 週 第 27104 日

 

昔、通乗といふ名の相人が居た。宇治殿(藤原頼通)・二條殿(藤原教通)を、「天皇三代の関白としてお仕へするでせう、また御歳八十まで長生きされるでせう」と申し上げてその通りになった。また、内大臣大宰権帥になった藤原伊周については「流罪の相がおありになります」と申し上げて、これもその通りになった。聖徳太子崇峻天皇を占って「横死の相がおありになります」と言はれたが、果たして、大臣である蘇我馬子に殺されてしまはれた。相当に優れた人々は必ず専門の相人であったといふわけではないが、この様に立派な占ひをされたのに、これにひきかへ高倉の宮の場合は、相少納言の失敗ではなかっただらうか。さう遠くない昔のことだが、兼明親王醍醐天皇の第九王子)、具平親王村上天皇の第七王子)は中務省の長官で、どちらも賢王聖主の王子であられたが、位におつきになる事はなかった。それでも謀反を起こされたことなどなかった。また、後三條院の第三王子輔仁の親王も御才学優れてあられたので、白河院がまだ東宮でゐらっしゃった時、後三條院は「あなたの即位した次にはこの輔仁の親王天皇にする様に」とご遺言されてあったのに、白河院は何を思はれたか、天皇の位を輔仁の親王には譲られなかった。せめてもの償ひとして、輔仁の親王の御子に源氏の姓を授けられて、無位より一度に三位に叙して、その後すぐに中将の位に上げられた。一世の源氏で、無位より三位にジャンプした例は、290年ばかり前に嵯峨天皇の御子で、陽院の大納言定卿の他にはなかった。輔仁の親王の王子は後に仁和寺の花園に閑居して、花園左大臣有仁公と呼ばれた。

けふも曇り空。お日様が射せば水仙の花も皆上を向くのだが。