平家物語「大臣流罪 2」

2022-05-10 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 4 月 10 日>(先勝 癸亥 三碧木星) Esbjörn Styrbjörn 第 19 週 第 26760 日

 

過去に大臣が流罪になった例を調べると、左大臣蘇我赤兄蘇我馬子の孫)、右大臣豊成(南家藤原)、左大臣魚名(藤原房前の子)、右大臣菅原(菅原道真)、左大臣高明公(醍醐天皇の皇子)、内大臣藤原伊周公に至るまで既に6人ある。しかしながら摂政関白が流罪になるのはこれが最初であると承る。故中殿の御子二位の中将基通は平清盛の娘婿であったので、後を受けて大臣関白になった。その昔、圓融天皇の御代のこと、天禄3年(972年)11月1日、一條摂政謙徳公(藤原伊尹)がお亡くなりになった。弟がふたりおありで、上の弟は堀河関白忠義公、下の弟は法興院の大入道殿と言はれた。この当時、下の弟は大納言の右大将であり、上の弟はまだ従二位中納言でいらっしゃった。つまり下の弟の方が上位であったが、この時に地位が再び逆転して、上の弟が内大臣正二位に上がって、内覧の宣旨が下された(天皇が裁可する文書などを先に見てよろしいといふ地位になった)。それは人の耳目を驚かすほどの大抜擢であったのだが、今回の場合はそれをも超過するほどの大昇進となった。何しろ、非参議二位の中将の身分から大中納言を経ずにいきなり大臣関白になったのであるから、こんなことは今まで聞いたこともない。普賢寺殿(藤原基通)のことである。上卿の宰相、大外記、大夫史にいたるまで、清盛の無茶なやり方に皆さじを投げるしかないように見受けられた。

我が家の庭のイチョウはまだ芽をふかないが、カエデには若葉がみられる。毎年不思議なのだが、最初は赤でしばらくすると緑の若葉になるのである