末法思想

2023-04-20 (木)(令和5年癸卯)<旧暦 3 月 1 日>(先負 戊申 六白金星)穀雨 新月 Amalia Amelie  第 16 週 第 27099 日

 

平安時代には末法思想が流行ったといふ。末法思想とは、釈迦の入滅後、次第に仏法が衰へていくといふ思想だと思ふが、早く云へば「この期間に入ってしまへばもう何をやっても無駄ですよ」といふことだと思ふ。方丈記によると、当時、賀茂の川原などは馬・車も通れないほど捨てられた死体で埋まって、そこらじゅうに異臭が満ち満ちてゐたとか書いてある。現代の京都からは想像もできないが、そんな時代には末法思想が流行ったのかもしれない。この世ではいくら頑張ってもダメだからあの世で浄土に生まれ変はって改めて修行しようといふ考へになったのかもしれない。念仏宗の源流はその辺にあるのだらうか。現代といふ時代も、戦争や災害や犯罪が続き、見方によっては末法の世ではないかといふ気がしないでもない。釈迦の教へでなくても、何かしら昔は高いレベルにあったものが、エントロピーが増大するやうに時代とともに低くなっていくといふ現象は他にもありうると思ふ。科学の進歩に目を奪はれれば人類は進歩してゐるやうに見えるが、一方で後退する文明の一面もありうる。それで末法思想が生まれやすくなったのではないかと思ふ。ただ、「この世では何をやっても無駄ですよ」と考へなかった宗教もある。僕はそんな、現世の中でこそ生きる意味を見出すべきだといふ考へ方に惹かれる。

散歩をすれば、チーチーといふ小鳥の声が、遠くなった僕の耳にも聞こえてくる。