タラントンのたとえ

2023-02-27 (月)(令和5年癸卯)<旧暦 2 月 8 日>(先負 丙辰 八白土星) Lage 上弦 第 9 週 第 27047 日

 

スウェーデンに住む様になって間もない頃、少しはキリスト教のことを知るべきかと思って、聖書を読みかけたことがある。ごく一部を読んだだけである。きっと立派なことが書いてあるのだと思って読んだが、「オヤ」と思ふ様な箇所もいくつかあった。そのうちのひとつはマタイ伝の「タラントンのたとえ」と言ふ節だ。ある人が旅行に出かけるときに、しもべたちに自分の財産を預けた。たくさんのお金を預かったしもべは、そのお金を元手に商売をして儲けて、主人が帰ってきた時に増やしたお金を添へて返した。少しのお金を預かった人は、穴を掘って主人のお金を隠しておいた。主人が帰ってきた時には、預かってあったお金をそのまま返した。それまでの僕の考へでは、預かったご主人のお金を勝手に使ふなどもってのほかだと思ってゐたから、穴を掘って隠しておいたしもべの方が褒められるのだなと思ったら、全く反対で、ご主人からは「怠け者の悪いしもべだ」と叱られてしまった。この時に、ヨーロッパ社会は自分とは何か根本的に違ふものがあると感じた。ネガティブ思考の僕は、ご主人から預かったお金で始めた商売が失敗して元も子もない状態になったらどうするのか、と思ってしまったのだ。聖書のその節には「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とも書かれてある。これなど、読み様によっては、現代の貧富の差の拡大を暗に予言してゐる様にも思はれて、複雑な気持ちになってしまふ。キリスト教における平等とはなんだらう。多分、読み方を間違へてはいけないのだと思ふが、いづれにしても自分に課せられた責任について思ひをいたすことが大事であるといふことだらう。浄土真宗キリスト教に似てゐるといふ意見を聞いたこともあるが、この辺りは、念仏さへ唱へてゐれば極楽に行けるといふ念仏宗の他力本願とは随分違ふ感じがあると思った。

冬の間は南の低い空にあったお日様もかなり南西に寄る様になった