家の系図とお墓

2022-08-12 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 7 月 15 日>(先負 丁酉 三碧木星)満月 Klara 第 32 週 第 268534 日

 

保守の本質って、結局自分の生まれた家のお墓を守ることにあるのかなと思ふことがある。僕は宗教的な心を持った人間であるつもりだけれども、命をなくした肉体に対しては、そこに霊的なものを感じることがない。ただ、死ぬといふことは死亡時刻と診断書で決まるものではなく、ある日数を経て、次第にこの世から遠ざかって行くものであるかなとは思ふ。やがては白骨と化する自分がその後どの様に扱はれようと、そのことに僕自身はあまり頓着しないつもりでゐる。どこに眠りたいですかと聞かれても戸惑ってしまふ。しかし、自分の場合はそれで良いとしても、先祖代々の墓所についてはさうはいかないと思ふ。やはり先祖代々のお墓は自分の生きる間は守りたいといふ気持ちはある。心に先祖を大事にしたいといふ気持ちがあっても、それが、お墓参りの様な形に現れることが少ない。今年もお盆の季節が来たが、我が家のお墓は地球の裏側だし、コロナで日本へ行くことができないから、もう3年もお参りしてない。近所の親戚が時々お参りしてくださるのだが、それに甘えて良いものでもないと思ふ。ところで、人には誰も父があり、母がある。そのそれぞれにまた父があり、母があるので、3代遡って先祖を敬ふなら 8+4+2=14 人を弔ふことになる。代を遡るごとに指数関数的に増えるので、全員を弔ふことはできなくなる。それで、その混乱を避けるために、家の制度や系図ができたのかなと思ふ。日本の場合は男親をたどることが多い様であるが、その系図に沿った先祖だけを弔っても片手落ちかなといふ気がしないでもない。昔のお殿様は、お家が絶えないようにとかの表向きの理由で、多くの女性と交はって子孫をたくさん残したが、どんなに女性の身分が低くてもお殿様の胤を身ごもれば即高貴な血とされるのも、何だか恣意的な感じがする。今の世に男女同権がどんなに叫ばれても、この家とお墓の制度が残る限りは実現しないであらうし、もしそのような制度が完全になくなれば、個人個人が勝手気ままに振舞ふ社会になって、先祖を敬ふ心も薄らぐ社会になって良くないかなとも思ふ。

フィーカに呼ばれてエレガントな時間を過ごした。