核兵器廃絶に向けて

2022-08-10 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 7 月 13 日>(先勝 乙未 五黄土星) Lars 第 32 週 第 26852 日

 

6日の広島の日が過ぎ、9日の長崎の日も過ぎた。今年は両市に原爆が投下されてから77年である。毎年、犠牲者の慰霊のために手を合はせることを繰り返して来たけれども、今年はウクライナ情勢や台湾情勢を踏まえて、核兵器廃絶へ向けての願ひが一層切実なものとなってゐる。実際最近の世の中は核軍縮ではなく、核軍拡へ動いてゐる様にみえる。いろいろな理屈をこねて核兵器を肯定するものに共通してゐることがひとつある。まさか自分の頭上で核兵器が炸裂することはあるまいといふ驕りだ。よその国の誰かの頭上で核爆発するのは仕方のないことだ、と多くの人が考へてゐる、としか解釈できない。それが自分の身の上に起きるかもしれないなどとは、つゆほども思はない。原爆が発明された時にそれを日本で落とすことになった背景には、日本といふ国がヨーロッパからもアメリカからも遠く離れた地であったことも、攻撃するものの心理の深いところに、おそらくあったらうと思ふ。また一方で、もし日本が先に原爆の開発に成功してゐたなら(現実離れした仮定だが)、当時の軍部の状況からして、それを使用することに何のためらひも感じなかったのではないかといふ気もする。もしも日本が他国の空に原爆を炸裂させてゐたなら、戦後に生まれた僕らは世界の中で実に肩身の狭い思ひをせねばならなかったらうと思ふ。日本が核開発で先行しなかったことは、ある意味で救はれた一面がないでもない。核兵器が使用されると町はどの様に破壊されるのか、それをふたつまで体験した日本は、世界に向けて核兵器の廃絶を心から訴へ続けなければならないと思ふ。

雲の形にも秋の訪れを感じる。